E-63     




尊厳死の論点



加 藤 良 一



200718





199条(殺人) 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。
202条(自殺関与及び同意殺人) 人を教唆し若しくは幇助して自殺させ、又は人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者は、6月以上7年以下の懲役又は禁錮に処する。



 最近、《尊厳死》について一段と議論が活発になってきた。つい先日もテレビで賛否両派のやりとりが放送されていたが、議論は必ずしも噛み合わないし、そうかんたんに結論が出る問題でもなく、なんとなく尻切れトンボで終わってしまった感があった。問題は、自分で選ぶはずの尊厳死が、他者によってなされる殺人と結びつく危険性を危惧するからである。
 また昨年「尊厳死: 富山・射水の呼吸器外し受け、懸念相次ぐ──都内で反対集会」と題する尊厳死反対活動の記事が新聞で報道された。その反対集会は、弁護士や哲学者、医師らでつくる市民団体「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」の主催で、難病やがんの患者団体などから約200人が参加し、「尊厳死の法制化は治療法のない難病患者らに死を選ばせる暗黙の圧力を生む」などの意見が相次いだという。生命倫理に詳しいある弁護士は、富山県の射水市民病院の患者の不審死について「患者の同意なく他者が人工呼吸器を外すような行為を尊厳死とみなすと、患者が生きるに値しないと他人が判断をすることにもつながる」とコメントしている。
 そして、今朝の日経に「呼吸器外しを容認」という記事が掲載された。岐阜県立多治見病院の倫理委員会が昨年10月、回復見込みがないと判断された80代の患者本人が事前に文書で意志表示したことを受け、人工呼吸器の取り外しを含む延命治療の中止を容認する決定を下していたというもの。「私の意志書」と題された文書には「私は現在元気に暮らしていますが、重病になり病床で将来再起ないとすれば延命処置をしないでほしい。安楽死を望みます」と認められていた。
 安楽死は、助かる見込みがないのに苦痛にさいなまれる患者の自発的要請にこたえて、医師が「医療行為として死に至らしめる」ものであり、いわゆる尊厳死とはまったく異なる。安楽死には、医師が致死薬を注射する方法と、患者自身が致死量の薬を飲む方法があるが、いずれも法に抵触する可能性があるという。前者は殺人、後者は自殺幇助ということになるのであろうか。おそらく、さきの80代の患者は、安楽死と尊厳死を混同していたのではないかと推測されるが、いずれにしても事前に意志表示していたことに変わりはない。自分の始末は自分でつけたいと願う時代になってきたのである。
 病院は岐阜県と協議した結果、県が「富山の問題もあり、法的に認められるとは限らない」との見解を示したため、院長は決裁を見送った。患者は入院二日後、心拍が低下し死亡した。

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 私自身は日本尊厳死協会に加盟し「尊厳死の宣言書リビング・ウィル)」をいつも携帯している。しかし、だからといって何の迷いもないわけではない。またそれがベストの選択と思っているわけでもない。あくまでほかに選べる方法がないから次善の策としているだけである。そんな状態だから、尊厳死に対するさまざまな反対意見を聞くにつけ、あらたな迷いが生じてくることも白状しなければならないだろう。
 作家の加賀乙彦さんも日本尊厳死協会に加盟している。東大医学部出身の精神科医にして小説家でもあり『フランドルの冬』『帰らざる夏』『宣告』『永遠の都』『聖書の大地』など多くの作品がある。加賀さんを引き合いに出したのは、なにも東大出の作家を利用して私の考えを正当化しようというのではなく、「一度くらい、自分の死について真剣に考えてほしい」という彼の主張に共鳴するからである。
 加賀さんが日本尊厳死協会会員になったのは、お母さまが亡くなられたときの後悔がきっかけという。加賀さんは、お母さまの呼吸が停止し、医師から、人工呼吸器を装着してよいかと聞かれたとき、とっさに「お願いします」と答えてしまった。お母さまは生前からそのような器具は絶対着けたくないと言っていたにもかかわらず、とっさの判断ができず、大切な意志を踏みにじってしまったのである。以来、自分をみとることになる妻子のためにも、死に方をきちんと示しておく必要性を痛感しているという。加賀さんは、日本ではまだまだ尊厳死について議論が進んでいない、家族や周囲の人々に迷惑をかけないためにも、自分の死に方を考えようと提唱している。私もこの点については、まったく同感である。
 また、30年も前から日本尊厳死協会に加盟しているシャンソン歌手の石井好子さんも、日本人は「死」について話をすることを好まないと嘆く。「私が死んだらね」と言うと、「そんな縁起でもないこと話さないで」と断られるが、「倒れる前に死ぬ前に話ができるうちに会員であることをしっかり話しておきたい」と日本尊厳死協会の機関紙『リビングウイル』に書いていた。

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 宣言書がどのようなものかは拙文「尊厳死と安楽死E-24や「死後の準備はお早めにE-9を参考にしてもらうとして、「ほー納得!」というウエブサイトで以前、《尊厳死》についてのアンケートや読者投稿が行われていたので紹介しよう。
 「あなたは尊厳死を認めるべきだと思いますか」という質問に対して、「認めるべきだと思う」(669票:96%)、「認めるべきだと思わない」(27票:4%)と賛成派が圧倒的多数を占めている(2006426日現在の投票結果)。このサイトは弁護士が運営する法律相談のためのものだが「皆で考えよう! 法の建前と現実」という観点から尊厳死を取上げていた。投稿欄にはさまざまな意見が寄せられているが、一個人の問題として片付けられないことはすでによく知られており、法的整備がなされることを希望する声が多いように見受けられた。
 ただし、この種のネット上のアンケート結果については注意すべき点がいくつかある。当然のことながら、アンケートに答えている人はパソコン上でネットサーフィンができる人に限られている。パソコンとなれば、一般には高齢者は含まれないだろうし、さらにアンケートに答えるという何か明確な問題意識を持っている人ということになる。ある意味で回答者は偏った分布を示しているはずである。パソコンもいじれず、積極的に係わるでもない多数のサイレントな人々の意見は反映されていないのである。

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 人工呼吸器を外す行為は医療行為か殺人か。
 尊厳死に反対する人は「生きることが望まれない人というのが残念ながらいて、そういうひとが、法を制定したことによって法をタテに殺されていくだろう」と主張する。最悪の場合、そういう一面があることは否定できないが、いっぽうで、人工呼吸器を付けたまま、回復する見込みがない病人を家族や医療機関が支えるには多大の負担を要することも事実である。反対派は、経済的な困難があるなら公的支援をも受けるべきと主張するが、その公的支援とは、もちろん国民の税金である。税金の使い道となると、あちらを立てればこちらが立たず、一筋縄にはいかない。
 ここに、将来がある患者とそうでない患者がいて、仮に二者択一を迫られた場合、まず前者への支援を第一に考えるべきで、倫理や思想を掲げる反対派がとやかくいうことではないという強硬意見まで出てきてしまう。具体的に目の前でこのような二者択一を迫られることはほとんど考えられないが、間接的にはどこかで判断しなければならないことはまちがいなかろう。

 



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