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小 塚 原 刑 場 地




渡 辺 盛 夫
2019年12月15日 


コツ通りとは
 外周りの仕事でよく「南千住」を訪れた。何十回と訪れるうちに変わった通りの地名に気づき、関心を持つようになった。その名は「コツ通り」である。
 顔なじみになった商店のおばあちゃんに「コツってどういう意味?」と尋ねると、答えたくない人もいるようだが、そのおばあちゃんは「遺骨のコツ。江戸時代の受刑者と家族が涙ながらに別れたのが泪橋。」と教えてくれた。江戸時代の処刑は公開処刑、家族の目の前での処刑。想像を絶するものがあった。

江戸時代のコツ通り~小塚原縄手
 東北方面から江戸へ向かう旅人は日光街道を南下し、千住大橋を渡るとやっと江戸に来たという安堵感があった。さらに歩を進めると、江戸でも最大の宿場町である千住宿があった。その先は通称「小塚原縄手」と呼ばれる、田圃の中の道幅四間(約七メートル)の街道。周辺には民家もなく、田圃の中の一本道。ここは、小塚原町、中村町の地名で呼ばれていた。また、仕置場と記載されているところもあった現在の東京都荒川区南千住2丁目あたりである。
 ここが歴史に名を残すことになる「小塚原刑場」(こづかっぱらけいじょう とも)、日本三大刑場の一つであった。千住宿と泪橋の間、約500メートルだが、ここを通過する旅人にとっては血も凍る道中であった。
江戸時代、江戸の刑場は北に小塚原刑場、南に東海道沿いの鈴ヶ森刑場(東京都品川区南大井)、西に大和田刑場八王子市大和田町大和田橋南詰付近)があり、三大刑場と呼ばれていた。

仕置場~処刑場
 コツ通り中ほどにあった仕置場。間口60間(約108メートル)、奥行30間(約54メートル)余りの広場で処刑が行われてきた。今は史跡としての痕跡もない。唯一、首切り地蔵(1741年建立)だけがこの状況を見守ってきた。
 死刑が執行されたのは磔刑・獄門・火罪であった。死刑の中では磔刑が最も重い罰で、火刑は放火犯に科せられる刑罰で、獄門は首を刎ねた後、獄門台に三日間、人目に晒された。
死体はそのまま野ざらしにされたり、丁寧に埋葬せず申し訳程度に土を被せるのみで、夏になると周囲に臭気が充満し、野犬イタチの類が食い散らかして地獄のような有様だったという。また、使われる刀剣の「おためし場」であった。

 昭和になって、再開発ラッシュで、静かに眠っていた遺骨が掘り起こされ、人目に晒されることになった。頭部、四肢骨が別々に発掘された場合は、斬首刑か。頭蓋骨に刀による損傷があるのか、火刑の際は骨が焼かれたときの黒ずみがあるかなど、どのような刑罰で亡くなったのか痕跡がある。
明和8年(1771)、蘭学者杉田玄白中川淳庵前野良沢桂川甫周らは、ターヘル・アナトミアに記載された解剖図の正確性を確かめるため、小塚原刑場において刑死者の解剖「腑分け」に立ち合っている。)

処刑した人数は20万人か?
 小塚原刑場は、慶安四年(1651)、小塚原町に創設され、明治14年(1881)に廃止されるまで約220年間、処刑が行われた所である。処刑された者20万人。
(明治初期、新政府は欧米並みの人権基準を設ける必要に迫られ小塚原刑場を廃止。小塚原刑場では、創設から廃止までの間に合計で20万人以上の罪人の刑を執行したともいわれている。)

 戦後発掘された大量の遺骨を見てみると、昭和30年~40年、常磐線の開通、貨物線施設等毎年1000柱の遺骨発見。平成10年、つくばエクスプレスの工事、地下トンネル工事で、頭蓋骨200点、四肢骨1700点。平成14年、常磐新線工事に伴う調査の際にも、頭蓋骨292点、四肢骨1700点と大量に発見されている。しかし、処刑の記録が乏しいのも事実である。
 何故、これほどまでに大量出土したのか。それは遺体の埋葬が処刑に追い付かなくなり、一度埋葬した場所を再び掘り起こして埋葬するという悪循環が続いたようだ。最後はあまり厚く土を掛けることもなかった。死体の腐食は速やかに進行し、概ね10年程度で白骨化する。骨の腐食は約100年で土に還るといわれているが、これは遺骨の保存状態によって差が生じる。小塚原刑場のように多くの遺体が重なり合っていると腐食が進みにくいのか。また、このあたりの荒川流域は関東ローム層のように酸性土壌(沖積土壌)ではないので、400年経ても腐食が進行しなかった。

 ただ、ここで問題になるのは、20万人という数字である。
 平成10年につくばエクスプレス開通に伴い発掘された104点の頭蓋骨が再鑑定されたが、刀傷はなかったという判定であった。また、文化13年(1816)に記録された『世事見聞録』には、江戸後期の状況が詳細に記録されていた。お仕置の者は、死刑以上300人、牢死人毎年1000人以上、行倒人も1000人以上いたと記載されている。
 年号が明治になると法改正もあり、世情も落ち着きを取りもどすと、死刑人の処刑別を集計したデータ(明治3年)が出てきた。その内訳は、斬首刑を含め死刑は総計188名と記載されていた。これらのことから小塚原刑場で発掘された遺骨は、刑場の死刑人以外の人々をも埋葬した場所であったといえる。

おわりに
 色々な文献を参考にしながら推考を重ねてみると、益々深みにはまっていく感じがしたが、黄木土也(きぎ つちや)氏の『小塚原刑場史』に取り上げられていた文献『国立科学博物館専報』『小塚原刑場跡出土人骨・・・」で、出土した人骨の科学的鑑定がなされたのは、大変意義あるものと思う。


 参考文献
『なぜ、地形と地理がわかると江戸時代がこんなに面白くなるのか』(大石学洋 洋泉社)
『荒川区史跡散歩』(高田隆成著 荒川史談会学生社)
『あらかわ史跡』(高田隆成著 荒川史談会刊)
『江戸「古地図」』(菅野俊輔監修 宝島社)
『復元江戸情報地図』(朝日新聞)
『大江戸死体考』(氏家幹人著 平凡社)
『日本行刑史』(瀧川政次郎著 青蛙房)
『日光街道を歩く』(横山吉男著 東京新聞出版局)
『ひらけ蘭学のとびら』〈鳴海風著 岩崎書店〉
『小塚原刑場史』(黄木土成著 新風舎)
『江戸時代の罪と罰』(氏家幹人著 草思社)

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