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チテキエイイ の セイカ


 



加 藤 良 一

2004年6月4日

 



 

 必要があってやむなく法律の勉強をはじめた。なぜこんな気の乗らない言い方をするかというと、この方面にはまったく不案内であるところへもってきて、何よりも日本語としての法律用語が気に食わないからである。無機質で味も素っ気もない文章は読んでいて疲れる。なぜ、法律の条文というものはあのように冗長な文章になるのだろう。役人は頭が固いからだろうか、などと気が進まないことを正当化しながら六法全書を眺めている。
 人から 「法律学入門」 (佐藤幸治他、有斐閣) という一般向けの本を薦められた。その本の 「はしがき」 を読んでみよう。

 法律学はとっつきにくい学問領域である、というイメージが強いようである。いままで見たこともないような言葉や概念が次から次へと現れると、ついとまどってしまうことがあるためかもしれない。また、論じられていることが、一見すると、現実の日常生活とは何かかけ離れた、きわめて抽象的な世界に関するものであるように映じ、いわんや、人間いかに生くべきかとは無縁の事柄であるように思われるところがあるためかもしれない。
 しかし、イメージや第一印象が事の真相をつかんでいるとは限らない。
 考えてもみよう。何かの縁あってこの世に貴重な生をうけ、それぞれみな違った人生観や価値観をもった人間が多く集まって共に生きるということが、そもそもどのような事柄であるかということを。人間は、それぞれ譲れない何物かをもって生きる存在であると同時に、互いに足りないところを補いあってはじめて生きることが可能な存在でもある。そうした宿命を担った人間がそれぞれの生を全うすることができるようにするためには、人間の生き方や利害の衝突を調整するルールが必要であるし、また、そうしたルールを作り、適用するためのしくみを整えることが不可欠である。
 人類は、昔から、それぞれおかれた時代環境の下で、こうした課題に真剣に取り組んできた。現代の法律および法律学は、そうした人類の長年にわたる知的営為の成果の上に立っている。一見無機質な条文や抽象的な論述の背後に、人間の利害の調整に関する巧みな知恵や、生々しい人間についての深い洞察が潜んでいることが少なくないのである。

 このように説明してもらうと、たしかにわかりやすい。これを読んで、法律に感じていた重苦しい雰囲気がすこし和らいだ気がした。人びとがより良く生きるためには 「人間の生き方や利害の衝突を調整するルール」 が必要で、錯綜する利害問題をいかに万人が納得しうる解決へ導くか、そのために 「一見無機質な条文や抽象的な論述」 となってしまうけれども、そのくらいはやむをえないということになる。とりあえず法律には 「深い洞察が潜んでいる」 ことがわかったが、依然として条文が難解なことに変わりはない。ここでひとつ例をあげてみよう。
 法人としての株式会社が、自分自身つまり自社の株を一定の条件付で買うことを規定した、商法211条の3【取締役会決議による自己株式の買受け】という法律があるが、その中の第4項に以下のようなことが書かれている。

第1項の決議に依り自己の株式を買受けたる場合においては、その決議前に終結したる最後に招集せられたる定時総会の終結後に買受けたる自己の株式の買受けを必要としたる理由並びにその株式の種類、数及び取得価額の総額を同項の決議に依る買受後最初に招集せられたる定時総会において報告することを要す。」

ン…、なんじゃコリャ?!、ワケワカンネー…、もう一度はじめからゆっくり読み直さざるをえなかった。スラスラ、フムフムと読んで理解された方は、かなりの通である。これが 「知的営為の成果」 だといわれてもネ…。まぁ、落着いてじっくり読めばいいのだろうけど、ことほど左様に法律というものはありがたくむずかしいものなのである。どうしてこんなくどい表現になるかというと、条文は、ある特定の意味合いにしか解釈できないようにしておかねばならないからだ。つまり決めた主旨とちがって受けとられては困るからだ。
 文学や詩ならば読み手によって如何ように受け取ってもよいし、むしろそこから何を読み取るかがすでに読み手の文学的感性の良し悪しでもある。しかし、法律においてはあるひとつの結論を導き出さねばならないから、なるべく勝手な解釈ができないように、くどいけれども厳密かつ範囲を狭める表現が求められる。このへんは自然科学ともある意味で共通する部分だろう。
 しかしそうはいいながらも、法律の問題は数学や自然科学のように答えが一つしかないというものではないという面もある。つまり法律においては、何にもまして 「解釈」 が重要であり、同じ法律問題であっても、人によって結論が変わることがしばしば起きる。ご存知のとおり、裁判のたびに有罪になったり無罪になったりするが、下級裁判所の判決が上級裁判所で覆されたからといって、下級裁判所がまちがっていたということではなく、あくまで法の 「解釈」 あるいは採用した 「理論」 のちがいということになるらしい。でも、判決が覆れば、世の中では 「まちがった」 と受けとめるのがふつうである。

 




 

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