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死後の準備はお早めに

 

 

加 藤 良 一

 



 わたしが死んだら、どうなるでしょうか。そんな縁起でもないと避けていては、死後の準備などできません。
 もしわたしが死んだとしたら、妻、息子、娘には直接の影響が出るでしょう。だから、生命保険などはきちんとしておきたい。次に姉、妹、弟、妻の親兄弟はじめ親戚などは、ふだんの付合いこそ希薄ではあるが、いざとなると肉親として係わってくることもあろうと思います。さらに、おじ、おば、姪、甥など、縁はさらに薄くなるけれども、万一のときには係わりが出てくるかも知れません。

 ひとが死んだら、ふつうは葬儀を執り行います。しかし、人によっては葬儀をしないで欲しいと遺言を残す人もいれば、立派な葬式にして欲しいと注文を出す人もいます。最近ではその人の生前の個性を生かしたユニーク葬なども出てきています。また簡略にしたいと家族葬を葬儀屋に頼んでも意外と安くならず、単に弔問客がいないだけということもあります。更に直葬といって火葬だけで済ませる簡単な方式もあります。
 葬儀に対する考え方は千差万別です。死んでゆく人間にとって、何らかの意思表示をしておくことは、おそらく遺される者たちへの気配りではあるでしょうが、それを生前にきちんと周りの者に言い残すひとは意外と少ないのではないでしょうか。それとも、何もいわずに死んだほうが、遺された者が自由に采配できてよいでしょうか。
 わたし自身は、無宗教、無信心です。一般的な儀礼的な葬儀などとくにやって欲しいとは思いません。ようは、あくまで家族が中心になって決めればよいと考えているのです。ここでいう家族とは、妻、息子、娘のことです。親類縁者は二次的な存在ですから、妻、息子、娘が葬儀を望むならやればよい。わたしは、自分が死んだあとまでどうこうと指図する気はありませんから、遺族が好きなようにやりやすいようにやればよいと考えています。
 こんな言い方をしますと、まるですべてを遺される者たちに押し付けてしまうようで、無責任このうえなく聞こえるでしょうか。わたしの本意は、葬儀はあくまで遺された者たちがやることだから、だからこそ遺族のやりやすいように配慮しておきたい、と願っているだけなのです。決して投げやりな考え方からいっているわけではありません。葬儀は、故人のためではなく、遺された者たちのためのものではないでしょうか。墓についてもしかりです。しかし、もし故人の意志が生前に表明されていたのなら、それは最大限生かしてあげるのがよいことはいうまでもありません。わたしがこのような考え方に至ったのは、たぶん父親の葬儀のときの一騒動が大きく影響していると思います。

 さて「死の準備」とは、いったい何をすればよいのでしょうか。少なくも、財産、保険、葬儀などについて、何らかの意志をどこかに残さねばなりません。わたしの財産などは取るに足りないから置くとして、当面重要になる生命保険は証書も含めて明らかにしておく必要があります。そのために「いざというときファイル」と名付けて、関連する資料をひとまとめにしています。

 死の準備その一としては、先に述べたとおり、基本的には家族の考えが優先しますが、わたし自身は「葬儀はやらなくてよい」と考えています。
 そのニとして、死んでからのことではなく、死に至るまでの話しとして望みたいことがあります。それは「尊厳死」についてです。尊厳死とは、傷病により「不治かつ末期」になったときに、自分の意思で、死にゆく過程を引き延ばすだけに過ぎない延命措置をやめてもらい、人間としての尊厳を保ちながら死を迎えることと定義されています。よく誤解されますが、尊厳死は安楽死とは違います。安楽死は、助かる見込みがないのに、耐え難い苦痛から逃れることもできない患者の自発的要請にこたえて、医師が積極的な医療行為で患者を早く死なせることです。

 わたしは、日本尊厳死協会が提唱しているリビング・ウィル Living will に同意しています。リビング・ウィルとは「生きている遺言書」あるいは「生きている本人の生きた遺志」ということなのです。

 要旨はつぎの三項目から成っています。

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 私は、私の傷病が不治であり、かつ死が迫っていたり、生命維持措置無しでは生存できない状態に陥った場合に備えて、私の家族、縁者ならびに私の医療に携わっている方々に次の要望を宣言いたします。
 この宣言書は、私の精神が健全な状態にある時に書いたものであります。
 したがって、私の精神が健全な状態にある時に私自身が破棄するか、または撤回する旨の文書を作成しない限り有効であります。

  1. 私の傷病が、現代の医学では不治の状態であり、既に死が迫っていると診断された場合には、ただ単に死期を引き延ばすためだけの延命措置はお断りいたします。
  2. ただしこの場合、私の苦痛を和らげるためには、麻薬などの適切な使用により十分な緩和医療を行ってください。
  3. 私が回復不能な遷延性意識障害(持続的植物状態)に陥った時は生命維持措置を取りやめてください。


 以上、私の宣言による要望を忠実に果たしてくださった方々に深く感謝申し上げるとともに、その方々が私の要望に従ってくださった行為一切の責任は私自身にあることを附記いたします。

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 この三項目は、そのままわたしの遺志でもあります。できるだけ尊重して頂けるとありがたい。さらに、使える臓器は、すべて多くの病める方々の役に立てていただきたいとも思っています。これが、経済力のないわたしができる精一杯の社会奉仕ではないでしょうか。

 尊厳死とは、人間の尊厳を保って死にゆくことではありません。むしろ人間らしく最後まで生き抜くことなのです。

 

 

 

2002年4月に書いたものを状況の変化に従って加筆修正しました。(2013年8月17日)

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