芭蕉が聞いた立石寺の蝉はなに蝉か?

 加 藤 良 一   2016年11月8日

 







 歌人齋藤茂吉の著書<文學直路>(昭和20425日発行 定價二十八圓)に『立石寺の蟬』という随筆というか評論のようなものが掲載されている。
 これは、芭蕉の句にうたわれている立石寺の蟬は果たして油蟬かあるいはにいにい蟬かに関する有名な論争について顛末を書いたものである。

 この本はたまたま図書館で見つけたが、70年以上も前に出版されたもので、紙質も悪くかなり煤けているし、活版印刷の程度もあまり良くなく文字が掠れている箇所があちこちにある。厚さも今の本に比べて1.5倍ほどもあろうか。

 
 齋藤茂吉、山形県出身の歌人で精神科医であり、大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物であった。長男は同じく精神科医齋藤茂太、次男は「どくとるマンボウ」で有名な精神科医で小説家の北杜夫である。
 Wikipedia
では「」とされているが、<文學直路>には『藤』と書かれているのでこちらが正しいのではなかろうか。余談だが、さいとう姓は何通りもの書き方があるのでややこしい。



 立石寺の蟬』は、芭蕉の句 『しづかさや岩にしみ入る蟬のこゑ』 の「」とは果たしてどんな蟬かについて考えを巡らした随筆である。この句は別名山寺ともいわれる山形県の立石寺が舞台とされている。この句は私などでも子どもの頃から親しんでいて、小学校の授業でもいろいろ考察したことを思い出す。

    

 茂吉は大正末頃ある雑誌で、この句に出てくる蟬のこゑというのは油蟬の聲だと断定的に書いたことがあるという。それに対して夏目漱石門下生で文芸評論家の小宮豊隆が、それは油蟬ではなくにいにい蟬に相違ないと言い出した。
 その証拠として、第一、『しづかさや』という初句が油蟬には適当していない。それから続く句の『岩にしみ入る』もまたそうである。これは威勢のよい油蟬のこゑよりもにいにい蟬のこゑに適当である。第二、芭蕉が出羽立石寺に行ったのは元禄二年の五月下旬である。それを太陽暦に直すと七月のはじめになる。七月はじめには油蟬はまだ鳴かないかと思う。このような二つの理由を挙げた。
  (右図:クリックすると拡大します⇒)



 対する茂吉は、

 『私は第一の証拠に向かつては必ずしも承服しなかつた。私は芭蕉の感覚を余程近代的に受入れていたために、蟬時雨のような群蟬の鳴くなかの静寂を芭蕉が感じ得たと思つたからで、また、一つ二つぐらいの細いにいにい蝉のこゑを以て、岩にしみ入ると吟ずるのは、あまり当然すぎておもしろくないと思つたからであつた。併しこれは後で考え直したことだが、私は少しく芭蕉をば近代人として買被つていただろう』
 と小宮豊隆の論を評価した。ただし、第二の点に関してはきちんと調べてから反論したいといったん留保した。

 茂吉は昭和三年七月二十七日、出羽三山に参拝し、その帰路八月三日に立石寺に立ち寄って蟬を調べた。
 茂吉は<奥の細道>に書かれている


 『山形領に立石寺といふ山寺あり。慈覚大師の開基にて、殊に清閑の地なり。一見すべきよし人々のすゝむるに依て、尾花澤より取てかへし、其間七里ばかりなり。日いまだ暮ず、麓の坊に宿かり置いて山上の堂にのぼる。岩に巌をかさねて山とし、松栢年ふり土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音聞えず。崖をめぐり岩をはふて佛閣を拝し、佳景寂寞として心すみゆくのみおぼゆ
 に従って、
 『夕方まで蟬のこゑを聴いていたが、その日にはもう油蟬のこゑも交つて居り、決して一様ではなかつた。絲のやうに引くにいにい蟬の一つ二つの細いこゑではなくて、群蟬の鳴ごゑが一つになつてきこえる趣である。けれども、日は八月に入つてゐるので、その儘芭蕉の句に應用が出來ぬから、さういふ事實を見るにとどめて東京に歸つた。』

 翌昭和四年、山形高等學校(現山形大学)の岡本信二郎氏からの情報で、その当時の立石寺では油蟬が鳴くと知らされた。
 その後、小宮豊隆が仙台の河北新報に『立石寺の蟬』という論文を発表し、その中に『しかし齊藤君は私の説を頭から受けつけず、斷乎としてそのあぶら蟬説を主張して止まなかったのである』と書いていたのに対し、茂吉はそれは記憶の錯覚で、酒を飲んで幾らか威勢が好かっただけに過ぎないと漏らしている。

 昭和五年に15歳になった長男斎藤茂太を携えて立石寺を訪ねた折、歌人で随筆家の結城哀草果らが子どもたちに手伝わせて立石寺の蟬を捕まえ標本にして茂吉に見せた。その大部分はにいにい蟬であったが油蟬も交じっていた。

 現地を何度も訪ねたり、知人から齎されたあれこれの事実を重ね合わせた結果、茂吉は小宮豊隆の説『岩にしみ入る蟬のこゑ』は油蟬ではなく、にいにい蟬が正しいと結論づけた。自らの結論に至る道程に落ち度があったと認めた。しかしながら、動物学的には油蟬を絶対に否定し得ないのは標本にも示されているものの、文学的にはまず油蟬を否定しなければならないとした。

 芭蕉の感覚は依然として元禄の俳人の感覚であっただろうから、ここは小宮豊隆のいうごとく、
 『蝉の聲が、岩にしみ入と感じられるためには、その蝉の聲は、太くて濁つて直線的で然も息が續かないやうなあぶら蟬の聲ではまことに具合がわるい。それはどうしても、細く比較的澄んでゐて絲筋のやうに續くかと思へば時々撓(しわ)りが見えるやうな、にいにい蟬の聲の方が遙かに適切である様である。』
 というのが解釈として正しい、芭蕉はやはり『しづかさや』といって一つか二つかのにいにい蟬を写生しているらしいと茂吉は納得した。このことをどこかに書こうかと思いながら果たせぬうち、昭和六年に小宮豊隆に逢う機会があったので、自身の結論を伝えた。








 茂吉の<文學直路>では「しづかさや」とされていますが、多くのところでは「閑さや」と書かれています。どちらが正しいのでしょうか。れっきとした著書に書かれているからといっても必ずしも正しいとはいい切れないでしょう。

<おくのほそ道>

山形領に立石寺(りゅうしゃくじ)(いう)山寺あり。慈覚大師の開基にして、(こと)清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに(より)て、尾花沢よりとつて返し其間(そのかん)七里ばかり也。日いまだ(くれ)ず。(ふもと)の坊に宿かり(おき)て、山上(さんじょう)の堂にのぼる。岩に(いわお)(かさね)て山とし、松栢(しょうはく)(とし)(ふり)土石(どせき)(おい)(こけ)(なめらか)に、岩上(がんしょう)の院々(とびら)(とじ)て物の音きこえず。岸をめぐり、岩(はい)て、仏閣(ぶっかく)を拝し、佳景(かけい)寂寞(じゃくまく)として心すみ(ゆく)のみおぼゆ。


   閑 さ や 岩 に し み 入 る 蝉 の 声


 

 蝉が鳴きしきるならば、むしろやかましいのではないかと思われます。それにもかかわらず芭蕉は「閑さや」とおいたのです。それは「寂寞(じゃくまく)として心すみ(ゆく)のみおぼゆ。」と、心の中の「閑さ」であることがわかります。

 

□ 立石寺の芭蕉像
 立石寺には句碑を挟んで芭蕉像と弟子の曽良像が並んでいます。芭蕉像は鈴木傳六氏、曽良像はご子息の鈴木伝四郎氏の寄贈になるものです。鈴木傳六氏は山形県内に多くの像やモニュメントを寄贈しており、規模の大きなものでは市内の霞城公園に置かれた最上義光(もがみよしあき)騎馬像が有名です。詳しくは↓をご覧ください。

http://www.ric.hi-ho.ne.jp/neo-rkato/essay/e104_sekaini_hokoru_nihonnashino_kibazou.html





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