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   超訳 モンテーニュ 中庸の教え 大竹 (けい) 編訳

 
加 藤 良 一  2019年4月19日




 思想家であり教育家でもある大竹 稽さんがミシェル・ド・モンテーニュの『エセー』を新たに訳された。その名も<超訳 モンテーニュ 中庸の教え>。<超訳>とはすばらしいネーミングだ。何か期待させるものがある。

   


 エセーLes Essais は、全3巻で構成された大部な書物である。日本ではこれまでに多くの訳本が出されている。それらの多くは便宜上67冊に分けられている。ぼくがときどき読む宮下志朗訳も原次郎訳もともに全7冊構成である。残念ながら端から端まで読んではいない。拾い読み程度しかしていない。セルバンテスの小説『ドン・キホーテ』も(冗長で…)長くて読み通せないが、『エセー』はどこから読んでも構わないところが多少はとっつき易いだろうか。以前、必要があって『エセー』(宮下志朗訳)を紐解いたとき、第1巻冒頭の「読者に」を読んでエセーとは何かを学んだ気がした。

 読者よ、これは誠実な書物なのだ。この本では、内輪の、私的な目的しか定めていないことを、あらかじめ、きみにお知らせしておきたい。きみの役に立てばとか、わたしの名誉となればといったことは、いっさい考えなかった。
……世間で評判になりたいのならば、わたしだって、もっと技巧をこらし、きらびやかに身を飾ったにちがいない。でも、そうした気づかいや細工なしに、単純で、自然で、ごくふつうのわたしという人間を見てほしいのだ。わたしは、このわたしを書いているのだから、ここには、わたしの欠点が、ありのままに読みとれるし、わたしの至らない点や自然の姿が、社会的な礼節の許すかぎりで、あからさまに描かれている。
……つまり、読者よ、わたし自身が、わたしの本の題材なのだ。だからして、こんな、たわいのない、むなしい主題のために、きみの暇な時間をつかうなんて、理屈にあわないではないか。では、さらば。

 
 大竹さんはモンテーニュの『エセー』を高校生のときに読んで以来「モンテーニュに私淑している」というほどのめり込み、それが高じてついに翻訳を手掛けることになった。サブタイトルは「中庸の教え」であるが、さて、中庸とはそもそも何だろうか? 右でもなく左でもない、いわば真ん中あたりに位置してバランスを取れということなのかと推測はするが、果たしてどうなのか!

 大竹さんから以前頂いた名刺には「モラリスト・作家」となっていた。モラリストっていったいどんなことをやる人なのか、その時はいまひとつピンと来なかった。モラリストとは「現実の人間を洞察し、人間の生き方を探求して、それを断章形式や箴言のような独特の非連続的な文章で綴り続けた人々のことである。特に1618世紀において活躍したフランス語圏の思想家を指す事が多い。その代表格がモンテーニュであり、ブレーズ・パスカル、ラ・ロシュフコー、ラ・ブリュイエールなどが続く。」と辞書にある。モラリストという語感からつい「道徳家」を想像してしまうが、むしろそれとは対極的な存在であるという。

 さて、前置きはこのくらいにして<超訳 モンテーニュ 中庸の教え>に戻りたい。この本は、B6判、1頁に1項目が収められており、つぎのような8個の章に分けられている。中は全部で174項目ある。

T 自分について(129
U 人生について(3058
V 幸福について(5987
W 誠実さについて(88105
X 判断力について(106122
Y 学びについて(123145
Z 無常について(146163
[ 死について(164174


 大竹さんはモンテーニュについて、冒頭でつぎのように書いている。

 彼が思想家と呼ばれるのは、学者だったからではなく、『エセー』という書物を残したからなのです。
 今や大思想家となったモンテーニュは、モラリストの始祖とも呼ばれます。モンテーニュは体系的な思想を形成しなかったので、彼の名が哲学史の教科書に出てくることはありませんが、世に名高い数々の大哲学者たちが『エセー』を読んでいるのは、周知のところです。パスカルしかり、ルソーしかり、日本では西田幾多郎しかり。そして、ニーチェしかり。「モラリストとは?」に答える紙幅はありませんので、ニーチェによるモラリスト評を抜粋しておきましょう。

  「真摯であり偽善を持たない」
  「ドイツのすべての形而上学者の著書を集めてもなお匹敵しない現実的な思想を持っている」
  「愚劣や無気力や虚栄から解放されるためにモラリストの書は読まれるべきである」

 
 大竹さんが『エセー』の翻訳に取り組んだきっかけは、出版社のディスカバー・トゥエンティワンからの要請によるものだった。
 大竹さんは「(東大から)二度目の大学生になるべく学習院へ入ったとき、問答無用で選んだ専門はフランス思想だった。無論、再度入学した東大でもフランス思想を専攻していた。ずっと、モンテーニュの声を聞きながら……。」と、二度も東大へ入るなど経歴も異色である。

 翻訳にあたって最初の課題は「原典に忠実」にという点であったが、先人たちの多くの翻訳があるなか、いまさら直訳でもあるまいし意訳でもなかろう。ではどうするか、編集者となんどもやりとりするうち、「現代人の胸にぐっと入ってくるような感じの文章に大竹さんが書き換えてしまってはいかがでしょうか?」のひと言に触発された。「研究者たちから一斉に非難されるくらいが丁度よいのでは?」と背中を押す助言にも助けられた。

 ぼくが大事にすべきは、「原典」よりも「現代人」だ。まず読む人が読まずして「原典」もクソもあったもんじゃない。「超訳」から「原典」に向かわせればいいんだ。


 このような背景から、1項目400字原稿用紙1枚ほどの容量で、平易なことばを使いながら内容を簡潔にまとめている。いくつか気になったものをつぎに紹介したい。

9 中庸とは無理をしないことだ
……中庸にはさまざまな面がある。まず、中庸とは無理しないことだ。また、自分にふさわしいことをするのも中庸だ。……中庸とは精神の平穏でもある。わたしはわたしにふさわしい速度で走る。その速度とは「ゆっくり走る」ということだ。これもまた中庸というものだろう。

 
 辞書によれば、【中庸】は、つぎのように説明されている。
1 かたよることなく、常に変わらないこと。過不足がなく調和がとれていること。また、そのさま。「中庸を得た意見」「中庸な(の)精神」
2
アリストテレスの倫理学で、徳の中心になる概念。過大と過小の両極端を悪徳とし、徳は正しい中間(中庸)を発見してこれを選ぶことにあるとした。
 精神の平穏を保つには中庸を心掛けることが大切だというモンテーニュの主張は『エセー』を通して一貫している。

11 いつも変わらない自分などいない
……わたしは、不確実な状態に委ねることにしている。……きみもまた、さまざまに変化するだろう。中には、だらしない姿や認めたくない姿もあるかもしれない。だが、高級なのも低級なのもすべてがきみ自身なのだ。

 
 ぼく自身は聖人君子じゃないしまったく不完全な人間だ。たまには良いこと言うじゃないかとか、素晴らしいことをしてくれたとか褒められることもあるが、いっぽうで非難されるような言動も同じくらいしていることを自覚しなければなるまい。
 落語家の立川談志は、「落語は人間の業の肯定だ」といった。モンテーニュが「いつも変わらない自分などいない」ということは、高級も低級もひっくるめて人間のなのだから、すべてまとめて肯定しようじゃないかという談志の信条と通底していないだろうか。

33 ゆっくり急げ
……「思い立ったが吉日」といわれるが、そんなものは当てにしない。なかなか腰が上がらなくてもいいんだ。でも、いったん歩き始めたら最後までやり遂げようじゃないか。無理なくしっかり歩こうじゃないか。……ゆっくり歩ける人にとっては、毎日が吉日になる。

 
 「ゆっくり急げ」ということばを聞くと、モンテーニュよりずっと後の時代のヘーゲルが『法哲学要綱』の序文で引用したラテン語“festina lente”(フェスティナ・レンテ)を思い浮かべる。この箴言はぼくの大学時代の研究室のモットーにもなっている。焦ってはならず、かといって時間を浪費してもならぬ。何ごともfestina lente”でいこうというわけだ。

60 交わりは違いからしか生まれない
 きみの知り合いに、旅先でも自分の習慣を固く守り、食事や入浴や睡眠のスタイルを崩さない人はいないだろうか? わたしは土地の人たちと積極的に交流することにしている。そこには未知の発見があるからだ。……
 「同類だから交わる」と、きみは勘違いしていないか? いや、交わりは違いからしか生まれないのだ。

 
 ぼくは、何事にも積極的に向き合うようにしている。あるときは野次馬根性むき出しかもしれないし、好奇心が強すぎるかもしれないが、とにかく自分から関わろうとしなければ世界が広がることはない。

108 学者が賢いわけではない
 きみは出会ったことがないだろうか? 他人の苦難については弁が立つが、自分の苦難にはまったく腰が引けてしまう学者たち。あるいは、記憶力は人一倍だが、判断力はすっかり空っぽの学者たち。学者の服を着ていても。品格が磨かれているわけではない。そして、判断力は知識なしでも済ませられるが、逆はそうはいかない。そんな学者になるために勉強するのなら、外で走り回って遊んでいたほうがいい。少なくとも身体は鍛えられる。

 
 この項はこれで全文である。要点のみにして簡潔である。

130 自分自身が哲学のテーマだ
 きみにとって哲学的なテーマとは、なんだろうか? ……わたしの場合、形而上学のテーマも、形而下学のテーマも、わたし自身でしかない。つまりわたしは、自分自身で、自分の哲学をするのだ。

 
 哲学にはついては、続く「131 哲学とは自分がどんなに無知か知ることだ」や「132 哲学には実践が必要だ」でも書かれているように、どこまでいっても自分から離れられないことが述べられている。


 [ 死について」の章は分量はすくないがとても興味深いところである。

165 死に方など気にするな
 死に方を苦にしてもしかたない。さまざまな死に方があるのだ。……衰弱していく死もある。断崖から落ちて死ぬことも、押し潰されて死ぬこともある。……自分が死んでからのことなど「苦」になるはずはない。死んでからのことはあきらめてしまうのがよい。大事なことは、死んでからのことではなく、今、生きているということだ。

 
 死に方について、モンテーニュの時代と異なるのは、現代には「尊厳死」という考え方、対処法があることだ。尊厳死とは、現在の医学では不治であると判断されたときに、無意味な延命措置はせず、苦痛を和らげる鎮痛治療は最大限にやり、数ヶ月以上にわたって植物状態に陥ったときは一切の生命維持措置はとりやめて、人間らしく死期を迎えることである。つまり、無用な治療は行わず自然な最期を迎えたいという、人間の尊厳を中心にした死に方をひとは選択する権利がある。しかし、そこにはより良く生きるという積極的な姿勢があることは、モンテーニュのいう「死に方など気にするな」と共通していると思う。

168 死ぬ準備ができた分だけ、生きることを楽しめる
 死ぬのは苦しみか? わたしはすでに、心置きなく死ぬ準備をしている。……死があるからこそ、わたしたちは丁寧に日々を送ろうとし、生が充実していく。……こんなふうに死ぬ準備ができた者には、最高の贈り物がある。死ぬ準備ができた分だけ、生きることを楽しめるのだ。

 
 この項は「165 死に方など気にするな」と大いに関連している。ぼくはぼくなりに自分の最期を意識しプログラムしている。日本尊厳死協会に加盟し「尊厳死の宣言書」(リビング・ウイル)を常に携行してそのときに備えている。詳しくは「死後の準備はお早めに」()をご覧願いたい。


 『エセー』の原典そのものは膨大な内容だが、大竹さんは全編からこれはと思うものを選び出して訳されたとのこと。当所の原稿ではどの章から編訳したかを書いていたが、最終的にその部分は削除したとのこと。それはあまりに専門的にならずに読みやすいものをという願いの表れでもあろうか。
 とにかく直訳でも意訳でもなく、大竹式の超訳というわけである。一読をお薦めしたい。



     


超訳 モンテーニュ 中庸の教え


ミシェル・ド・モンテーニュ 著

大竹 稽 訳

株式会社ディスカバー・トゥエンティワン
2019130日発行




 



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