K-49

 



加 藤 良 一


2020326





 ある人から一冊の詩集をお借りした。
 『母への遠景
ててて叢書、平成267月発行)と題された新井慎一郎さんの詩集、表紙のセピア色の写真が印象的である。それは若いお母さんに抱かれた男の子の写真で、この詩集のテーマを彷彿とさせるものだ。表紙カバーの裏面に次のようなメッセージがある。

言葉を紡ぐ……
少年の日の 思いを胸に 歩み続けた
ひとすじの軌跡
言葉の海に 翻弄されながら めざしたのは
始原の母か
そうだ いま おまえは おまえの生まれた場所へ
帰るのだ


 作者の新井慎一郎とはペンネームで、本名は新井慎一さんという。昭和255月、埼玉県深谷に生まれ、学習院大学文学部ドイツ文学科を卒業している。埼玉の偉人といわれる渋沢栄一研究の第一人者で、深谷市郷土文化会会長も務め、『渋沢栄一とその周辺』など多数の著書がある。また、深谷市議会議員などを歴任し、渋沢栄一顕彰事業株式会社代表取締役として渋沢栄一の事跡や精神の普及に努めるかたわら、詩や小説の執筆も手掛けている。

 この詩集には、冒頭の「秋あかねの飛ぶ日」から、「アナーキストの岡本潤は」、「秋のオマージュ」、「秋の挽歌」、「遠い昔」、「寂しい旅人」など抒情的な22篇の詩が収められている。
 「秋あかねの飛ぶ日」は、エアポケットのように町に空き地が増え、かつて品の良いおばあさんが店番をしていたタバコ屋も店仕舞い、今では代わりに自動販売機が立っている。秋あかねの飛ぶその日、「往きて帰らぬもの」を思いながら佇む作者の気持ちがしみじみ伝わってくる。

 詩集のタイトルにもなった「母への遠景」は、今は亡きお母さんを偲ぶ哀歌だ。

母への遠景

みずみずしい果実が

歯にしみるように

あなたを思うと

僕のささくれだった心でさえ
かすかにざわめくのを覚える

あなたに手をひかれて
歩いた小道……

だが もう
僕には思い出すことができない

都大路を行く
千年の風に吹かれて
どこかへ消えてしまった

僕は 僕の
この手のぬくもりを
誰に伝えればいいのだろう


 新井さんが、詩集を編もうと思い立ったのは、優しかった母親への募る思いを何がしかの形に残したかったからにちがいない。
 「セリ摘み」という詩の見開きの右頁には、母親に抱かれた妹とその脇に少年が屈託なげに寄り添った写真がある。幼き慎一少年である。しあわせとはまさにこの瞬間だと思わせる一コマである。
しかし、そこに綴られていることは遠い昔の切ない思い出であり、亡き母への鎮魂歌でもある。

 

セリ摘み

お母さん
セリ摘みに行きましたね

春先のまだ肌寒い風が
吹いていたかもしれません
あるいは土手の斜面の陽だまりは
とても温かかったのかも知れません
遠い日の記憶で定かではありませんが

お母さん
あなたは一歳になるかならぬかの妹を背に負い
四、五歳になった私の手を引いて
セリ摘みに連れて行ってくれましたね

世の中全体がまだ貧しく
とりわけ我が家が貧しかった頃
お母さん
あなたはまだ二十八、九歳で
輝くばかりに美しかったことでしょう

近所の子どもたちが大好きだった
紙芝居屋さんが来るその日
あなたは自分の子どもに
五円というお金を持たせてやることができず
紙芝居屋さんが来るその時刻になると
妹を背に負い私の手を引いて
遠くの土手の斜面まで
セリ摘みに出かけたのでしたね

そんな事情とはつゆ知らず
ただただ幸せな気分でした

お母さん
いまあなたは病院のベッドで
人工呼吸器をはめられ
必死に病と闘っています

苦しいだろうに
麻酔薬のおかげで
その苦しさもわからずに
必死の呼吸を繰り返しています

世の中全体がまだ貧しく
とりわけ我が家が貧しかった頃
輝くばかりに美しかったあなたは
精一杯生きて
いま老いて病んだ体を
ベッドに横たえています

不肖の息子である私は
ただただオロオロと
次から次へとあふれ出る涙を
ぬぐうことしかできません

家にいても眠れず
深夜台所の隅で
声を押し殺して
泣くばかりです

お母さん
別れの時が迫っているのですね

お母さん
もう一度
セリ摘みに
連れて行ってくれますか

 
 お母さんがセリ摘みに連れて行ってくれたという土手は、埼玉を北から東へ流れる利根川かあるいはその近くの川であろうか。新井さんは戦後の復興がまだ十分でなかった時代に生まれ育っている。つまり私と同じ「団塊の世代」である。共通点は貧しい中で育ったこと。しかし、あの時代は誰もがみな元気だった。セリは春の七草のひとつ、万葉集にもセリ摘みの歌がいくつか知られている。若葉の成長が競り合うように背丈を伸ばし群生することから、「競り」とよばれるようになったそうだ。まるで我われ団塊世代のようではないか。

 新井さんのお母さんは、子どもに紙芝居を見せてやりたかったが、その5円というお金が工面できなかった。紙芝居に興じる近所の子どもたちの歓声が届かない遠くの土手へと、泣きたい気持ちで逃れたのだ。5歳の子どもだった新井さんは、そんなこととは知る由もなく、ただただお母さんと妹と三人揃って手をつないでピクニックに行くのが楽しかったのである。

 私が生まれ育った東京には大きな多摩川が流れている。小学生の頃その河原へ母がシジミやザリガニを採りに連れていってくれた。私もだから新井さんと似たような体験をしている。この詩を読みながら不覚にも涙がこぼれ、頁をめくる手が止まってしまった。私の母も貧しいながら、なんとか子どもを楽しませようと必死になっていた姿が重なってきたからだ。新井さんの感性、お母さんへの愛情の深さに打たれた。

 新井さんはあとがきで、母親に対する思いを感謝の念を込めて認めている。

 母が逝って九年。我が家の庭に紫陽花が咲く度に、紫陽花の咲く頃に逝った母を思います。私が今日在るのは、多くの人々の愛と励ましの賜物であり、とりわけ母によるそれを思う時、今でも涙を禁じ得ません。
 私が小さい頃は、まだ日本全体が貧しく、我が家もその例にもれませんでした。母もどこかへ働きに出ていたのでしょうか。学校から帰ると、(……)食器棚には、母の伝言が期された小さな紙片が置いてありました。母の不在から来る一抹の寂しさとともに、私はそれを読むのが楽しみで、いつも心躍る思いでそれを読んだことを覚えています。
(……)ここに『母への遠景』と題して編んだ小詩集の背景を成すのは、あるいはそうした私の少年時代であるのかも知れません。(……)


  紫陽花や また母を恋ふ 児となりぬ    猶香(ゆうこう)


 詩人の茨木のりこさんは、詩についてつぎのように書いている。
 いい詩には、ひとの心を解き放ってくれる力がある。いい詩はまた、生きとし生けるものへの、いとおしみの感情をやさしく誘いだしてもくれる。どこの国でも詩は、その国のことばの花々である。新井慎一さんの
詩集母への遠景』を、茨木のりこさんのことばのように感じながら読ませていただいた。




【新井慎一著書】

■渋沢栄一とその周辺
   新井慎一 著(博字堂 2012  深谷ふるさと文庫)
■若き日の渋沢栄一 : 事上磨練の人生
   新井慎一 著(ててて叢書 ; 1巻、深谷てててて編集局 2014 )
■渋沢栄一を生んだ「東の家」の物語─渋沢栄一出世のルーツを探る─
   新井慎一 著(博字堂 2002  深谷ふるさと文庫)
■目で見る熊谷・深谷・大里の100
   新井壽郎 監修、新井慎一、井上善治郎、長島二三子 編(郷土出版社 1998
■その他写真集など多数あり




新井慎一さんが紹介する
<渋沢栄一の原点 〜幕末・パリ・血洗島〜>

歌劇<幕臣・渋沢平九郎>の上演にあたり、渋沢家に造詣の深い新井さんのご指導を仰いでいる




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