M-140


The Big Nine 

世界一大きな 「第九」


加 藤 良 一

2016年12月14日



 アメリカの音楽学者ルイス・ロックウッドの大部の著書『ベートーヴェン 音楽と生涯』(土田英三郎・藤本一子訳 春秋社
2010)に、1998年、長野で開催された冬季オリンピックの開会式フィナーレで、小澤征爾氏が実現した壮大なコンサートのことが書かれていました。
 そのコンサートとは、ベートーヴェンの第九交響曲第四楽章「歓喜に寄せて」を世界五大陸同時に演奏したという偉業のことです。海外と結んだニュースなどで見られるとおり、遠距離ではどうしても時間差が出てしまうという問題があります。その時は、ニューヨーク、ベルリン、ケープタウン、シドニー、北京、長野の五大陸六都市間を結びました。総合演出は浅利慶太氏でした。

 長野県民文化会館で指揮する小澤氏の画像を海外に送り、その指揮を観て彼の地の合唱団が歌い、それを長野のオリンピック会場に送信して再現したのでは、日本の合唱団とは当然ずれが生じてしまいます。五大陸間相互でそれをやったらまったく滅茶苦茶になることはまちがいありません。もちろん同時演奏にはなりません。
 そこで、NHKがその時すでに実用化していた、地震の瞬間を放送するためのメモリー付きの録画装置を応用し、新たに開発した時間差を解消するためのTLA Time Lag Adjuster)と呼ばれる優れた通信技術が導入しました。映像がもっとも早く到達するのは、当然ながら長野県民文化会館のもので、もっとも遅い北京との時間差は約2秒もありました。しかし、TLAで衛星回線と ISDN 回線を通じて各国とやりとりすることで、その2秒の時間差を克服しました。

 各国にはそれぞれ200人の合唱団、合計1,000人に加えて、大会会場の観客も合せた全世界5万人の大合唱となりました。技術大国日本を世界に示した一大イベントでした。


ロックウッド氏は、『ベートーヴェン 音楽と生涯』の中で、日本でこれほどまでに「第九」に力を入れるのには、つぎのような背景があると書いています。

 「歓喜に寄せて」は1956年大会以来、すべてのオリンピックで歌われてきた。1990年代までに、日本では毎年12月に大合唱団とオーケストラが「Daiku──大九The Big Nine──を演奏するのが恒例の習慣となっていた。(中略
 一般聴衆の頭の中には、実際には二つの第九交響曲がある。一つは合唱賛歌としての「歓喜に寄せて」それ自体である。これはまさにその旋律であって、それが由来するところの手の込んだ複雑な楽章ではない。もう一方は、完全な作品としての大規模な四楽章ツィクルスの交響曲であり、その巨大なフィナーレは交響曲というジャンルにおいて初めて独唱と合唱による声楽を導入したのである。全体として見るなら、その楽章構想は一連の前進的なつながりを形成しており、先行する三つの楽章は互いに均衡を保っているだけでなくフィナーレを準備し、フィナーレに構造的および美的に多くの意味を与えている。
 シラーの詩の第一節「Freude, schoener Goetterfunken(歓喜よ、神々のうるわしき煌きよ)」で始まる箇所へのベートーヴェンの付曲は、疑いなくフィナーレ楽章の中心部をなしているが、第二の根本的に異なるスタイルによる対比的な箇所である最初の合唱部分(リフレイン)「Seid umschlungen, Millionen!(抱きあえ、もろびとよ!)」も、これに匹敵する重要性をもっている。
 Freude, schoener Goetterfunken」の主題と歌詞は、やがては「Seid umschlungen, Millionen!」のそれと対位法的に結合し、楽章の壮大なクライマックスを形成する。「Seid umschlungen」の主題は、旋律的には難しく和声的に曖昧であり、したがって全く異なったタイプと性格であるため、アマチュア合唱団が歌うことのできる賛歌として設定されるということはありえない。言い換えれば、一般レヴェルからすれば、第九交響曲はそもそも交響曲としてはあまり知られているわけではなく、あの最も有名な旋律でイメージされているにすぎない。この状況はこの作品の現代史に見られる重要な特徴なのである。
(ドイツ語のウムラウトは、正書法に基づいて、当該文字の後ろに“e”を付けることで代替しました)


 なるほど、そのとおり、日本では毎年暮れになると無数の「Daiku」が演奏され、まさに「大九The Big Nine)」の観を呈しています。そして、ロックウッド氏が指摘するように、アマチュアが歌うには難易度が高いため、ふつうは相当の練習期間を必要としています。それにも係らず、曲のもつ壮大さ、オーケストラと一緒に歌える魅力、などなどが相まって日本中の合唱人を虜にしてやまないのです。



 
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