飯 能 戦 争


振武軍、上野から田無に退却
決戦の地
振武軍本陣 能仁寺
平九郎 中軍の組頭に
大花火の空筒で偽装
平九郎 漁師も引き連れ出陣
新政府軍一斉攻撃を開始
最後まで廻りきらなかった幻の廻文
振武軍陥落
孤軍奮闘も多勢に無勢…



◇振武軍、上野から田無に退却
 上野を後にした振武軍は田無村(現・西東京市田無)の法正寺に退いて江戸の様子を窺っていた。田無は、上野からさほど遠い距離ではない。上野で徹底抗戦に挑む彰義隊と新政府軍との間に一旦事が起これば、すぐにでも援軍に駆けつけられる。振武軍は彰義隊と袂を分かったものの、あくまで新政府軍と敵対する立場に変わりはなかった。
 しかし、戦闘開始後、彰義隊は援軍を待つこともなく一日足らずで壊滅、敗残兵は命からがら四方へ散ってしまい、時はすでに遅かった。援軍の必要はなくなったが、それより振武軍は態勢を立て直し、新政府軍との決戦に備えなければならない。

◇決戦の地
 振武軍は、田無村から箱根ヶ崎(現・東京都西多摩郡瑞穂町)に引き下がり、次いで飯能(はんのう)(現・埼玉県飯能市)へと移動した。最後の決戦地選考に当たって、それぞれの思いが交錯し議論百出で難航したが、ようやく飯能村羅漢山と決まった。
 その日は雨模様だった。振武軍四百の隊士は、いざ飯能村へと心を奮い立たせて進軍した。いっぽう、江戸の新政府軍は、彰義隊殲滅の勢いをもってすぐに振武軍の追討に動き出した。西の裏手に当たる秩父方面には武蔵三藩と呼ばれた川越藩(現・埼玉県川越市)、忍藩(現・埼玉県行田市)、岩槻藩(現・埼玉県さいたま市岩槻区)を配置、東寄りの川越には大村藩(現・長崎県大村市)、薩摩藩(現・鹿児島県:正式には鹿児島藩)その他が続々と集結、包囲網を敷いた。

◇振武軍本陣 能仁寺
 慶応4年/明治元年(1868)5月18日、次々と押し寄せてくる兵士の群れ、不穏な動きに、飯能村では多くの民家が固く戸を閉ざし、息を潜めて見守っていた。
 まずは、本陣をどこに構えるか決めねばならない。村内の手頃な寺々を物色し交渉するが、寺にしてみれば迷惑この上ない話しでおいそれとは応じてくれない。けっきょく無理強いして能仁寺に押しかけ、そこを本陣とした。他の隊士はそれぞれ四つの寺に入り込んだ。どうみても力づくの横暴極まりないものだったが、それが戦争というもの、武士というものだろうか。村人はひたすら耐えるしかなかった。
 いきなり四百もの兵士に食べさせ、休む場所も与えねばならないことになった。いくら戦争とはいえ、やはりそれ相当の代金を支払わねば誰も協力などしてはくれない。参謀格の渋沢平九郎は食糧の調達に奔走しなければならなかった。

◇平九郎 中軍の組頭に
 振武軍の編成は、渋沢成一郎(喜作)を筆頭に、前軍、中軍、後軍を組織した。重要な会計頭取には榛沢(はるさわ)新六郎があたったが、これは尾高惇忠(じゅんちゅう)つまり新五郎の変名であった。(昔の武士は長ずるに従って名前を変えたり変名を使ったり、さらに雅号や屋号で呼んだりと複雑である。)
 渋沢平九郎は中軍の組頭として加わった。振武軍は田無から箱根ヶ崎に移った頃には隊員数は600人を超える規模になっていたが、さらに、その後江戸から逃れてきた彰義隊兵士などが合流、瞬く間に倍増していた。

◇大花火の空筒で偽装
 振武軍は、奥秩父の山々を背にした飯能の地に戦陣を張った。対する官軍は数千を数える大勢力で武器も十分に備えていた。さらに遠方まで手を回し、包囲網を整えていた。悲しいかな、勝ち目は薄い。しかし、大義を掲げてここまできた以上、今さら引くことはできない。如何にして戦うか…。

 慶応4年/明治元年(1868)5月20日、羅漢山山頂に見張り台として高さ十間の櫓を建てた。平九郎はその上から猟師が現れるのをじりじりしながら待っていた。猟師はもとより侍ではないが、鉄砲の扱いに関しては侍より上である。予め百人ほどの猟師に協力を依頼してあったのだ。だが、朝から櫓の上で待ち焦がれた猟師は昼過ぎになっても現れなかった。

 平九郎は一旦本陣に戻ってはみたものの諦めきれなかった。気を取り直し夕刻あらためて櫓に戻った。
 その時、薄暗がりの山道にわずかな人影らしいものが見え隠れした。来たっ、やっと猟師が来てくれたのだ。はやる気持ちを抑えながら平九郎は山道を駆け下りて行った。それは、60名ほどの猟師たちの隊列であった。この一帯は徳川家の所領だったこともあり、村びとはそれなりに幕府に好意を抱き肩入れする気持ちがあったのである。

 男たち一行は大きな筒を抱えていた。なんとそれは大花火打ち上げ用の大筒だった。これをいくつも立てておけば、敵は大砲と勘違いして仰天するのではないかというのである。張りぼてではあるが、名案だ、何もないよりましだろう。早速櫓の周囲に並べさせた。一区切りをつけた平九郎が、本陣の能仁寺に戻ると、迎えた成一郎(喜作)や惇忠らに、大勢の猟師を集めたことを褒められ、苦労した甲斐があったと喜んだ。

◇平九郎 漁師も引き連れ出陣
 5月21日午後、平九郎は猟師などを加えた一軍を率いて顔振峠に向かった。
 武州にはそれなり武芸の達人がいた。例えば、比留間大五郎という甲源一刀流の剣客は、振武軍が飯能へ向かうきっかけを作った。彼は、一橋家に仕え慶喜を守護せんと彰義隊を経て振武軍に加わった武道家である。また、天然理心流という流派に学ぶ者も多く、猟師百姓といえども一通りの剣法は嗜んでいた。振武軍には百姓や浮浪人が混じっていたが、官軍といえども決して侮れるものではなかった。


顔振峠(かあぶりとうげ)は、奥武蔵の東部、埼玉県飯能市と越生町にある峠。標高500m。峠には三軒の茶屋がある。晴れた日には東に大宮副都心の高層ビルなどが見渡せる。
 平安時代、源義経が京落ちで奥州へ逃れる際、あまりの絶景に何度も振り返った、また、お供の武蔵坊弁慶があまりの急坂に顔を振りながら登ったなどが由来と言われている。また、冠のようにとがった山があることから、その冠が濁って顔振(かあふり)となったとも言われている。
 過去に「こおぶり、こうぶり」とも呼ばれたが、地元では「かあぶり」と呼ぶことが多かったため、現在では行政でも「かあぶりとうげ」で統一しているとWikipediaにある。


 飯能
は、武蔵野の平野が秩父や奥多摩に向けて徐々に高くなるあたりに位置し、東側の江戸に向けたところだけが開けており、いわば自然の要塞のような形をしている。

◇新政府軍一斉攻撃を開始
 振武軍
が能仁寺に本陣を構え戦闘準備に入った頃、いっぽうの官軍側では軍監尾江(おえ)四郎左衛門が、鹿児島、大村、佐賀、福岡、広島、鳥取、前橋、忍の8藩を率いて川越城に入り、川越城主松平周防守(すおうのかみ)家臣の精鋭も結集し機を窺っていた。
 (軍監とは、軍隊の監督をする職。いくさめつけ。監軍ともいう。)

 そして、慶応4年/明治元年(1868)5月22、丑の刻(午前2~3時)官軍は満を持して一斉攻撃を開始した。官軍総攻撃の模様を「飯能戦争秘話」(高麗(こま)博茂編纂 横手の三義人顕彰会)では次のように伝えている。

(官軍は)扇町屋、笹井河原、鹿山(かやま)峠の三方面よりラッパを吹き鳴らし、大砲、鉄砲をもって一斉に攻撃を開始した。これに対し振武軍は、渋沢平九郎等剛勇の士を前線に配置して防戦に努めたが、錦の御旗を掲げた三千の官軍勢は疾風枯葉を()くの概を以ってこれを撃破しつつ進軍し、その日の夜半早くも飯能市内中に突入し、翌二十三日丑の刻(午前2時)より智観寺、観音寺その他市内の各寺院に分屯していた振武軍将兵を逐次掃蕩し、引き続き辰の刻(午前8時)には本陣総攻撃を決行したのである。この時官軍は本陣に向かって一斉に大砲を撃ち込んだが、その時の模様は百雷が一時に落ちるようだったという。官軍の総攻撃を受けた振武軍の将兵は決死の覚悟で孤塁を守り奮戦したが、衆寡(しゅうか)敵せず、その日午の刻(正午)本陣の能仁寺は砲火の為め全焼して陥落し、振武軍の将士は或いは討死し、或いは逃亡し、二日間に亘った惨な戦は終りを告げたのである。世にこれを「飯能戦争」と称する。

 
◇最後まで廻りきらなかった幻の廻文
 かたや振武軍は、官軍の総攻撃必至とみて、一通の廻文(めぐりぶみ)吾野(あがの)名栗(なぐり)一帯の村々に向けて発した。今でいう回覧板である。



 文中、「我野」は「吾野」を指すと思われる。
廻文を意訳すると次のような内容であった。

大至急 我野谷つ村をはじめに廻すこと
この度当軍が在留することになった
村々の一同へとくと話したいことがある
用の足りる村役人
一人ずつが急ぎ飯能村
見張番所まで出てくること
  但し、用向きの事は別段心配いらない
   この廻状を見次第すぐに出てくること
   この廻状を見た時刻を付け
   最後の村から持参せよ 至急廻すこと


 
この廻文(めぐりぶみ)は、白子村からはじまり、高麗川上流の11か村に当てたものであるが、八つ目の三社村まで署名捺印がなされている。廻文の受け取り時刻をみると、最初の白子村は未申刻(未:午後2-3時、申:4-5時⇒午後3-4時頃)、山崎村が受け取った時には既に子の下刻(子:夜中の12-1時、つまり夜中の1時頃)だった。なんと九か村を廻るのに9時間を要してしまい、梨子本村と小丸峠下へは廻らなかったのである。頼みの廻文が廻りきらないうちに振武軍は陥落し、四方へと敗走を重ねていった。


 5月22日の廻文の回覧状況は振武軍の意に反し、次のようにのんびりしたものであった。とにかく歩いて隣村まで行くのであるから仕方がなかったというしかない。

白子村 未申刻(午後3-4時)拝見仕候
虎秀村 未上刻(午後3時)拝見仕候
平戸村 酉上刻(午後6時)拝見仕候
井上村 酉下刻(午後7時)拝見仕候
南 村 酉下刻(午後7時)拝見仕候
坂石村 戌上刻(午後8時)南村より請取拝見仕早々順達仕候
芳延村 亥上刻(午後10時)坂石町分より請取拝見仕早々順達仕候
三社村 子上刻(午後10時)芳延組より請取拝見仕早速順達仕候
山崎村 子下刻(午前1時)三社より受取拝見仕候
梨子本村
小丸峠下
(小丸峠とは正丸峠のことか)

 けっきょく村名主を集めて何事かを話すこともなく戦は終わってしまった。振武軍は一体何を話したかったのか。
  「
但し、用向きの事は別段心配いらない
とはいえ何らかの重要な頼みごとがあったはず。まさか開戦直前になって武器調達の依頼でもなかろう。では何のためか。敗戦はそれなりに覚悟のうえであったろう。敗走にあたり、退路の道案内とか、手助けを求めたかったのであろうか。


◇振武軍陥落
 飯能戦争秘話」によれば、振武軍のその後の敗走は次のようであった。

本陣能仁寺陥落の際、振武軍頭取渋沢成一郎と中隊長尾高惇忠(じゅんちゅう)は、血路を開いて官軍の重囲を脱し、羅漢山を越えて武州高麗(こま)郡高麗郷横手村(現在の埼玉県入間郡日高町大字横手)に逃れた。
(中略)「横手の三義人」に危ない所を救われ、衣類、食糧等の給与を受け、その手引きによって東吾野を通過して吾野に落ち、更に秩父を越えて上州に逃れ、後渋沢成市郎榎本武揚に従って函館五稜郭に走り、戦敗れて榎本武揚とともに官軍に降り下獄したが、明治三年大赦に遭い、名を「喜作」と改め、大蔵省に出仕し、その後官を辞して実業界に転じ、渋沢栄一と並び称される程の財界の大立物となったのであった。又尾高惇忠は、明治三年民部省に登用され、富岡製糸場長を兼ね、後官を辞して第一銀行に入り盛岡、秋田、仙台支店長を歴任したのであった。


孤軍奮闘も多勢に無勢…
 慶応4年/明治元年(1868)522日夕刻、飯能において振武軍と官軍の斥候が衝突し、ここに飯能戦争の火ぶたが切られた。戦闘開始の報を受け、翌未明、官軍の総攻撃が開始された。
 しかし、わずか半日で振武軍は潰滅し、四方八方へと敗走して行った。なかでも平九郎は、名栗山中を落ちて行くうちにたった一人となってしまった。まことに不運であったといわざるを得ない。かたや渋沢喜作や尾高惇忠らは命からがら逃げのびることができた。

 高麗(こま)博茂編纂の「飯能戦争秘話」に平九郎の運命の別れ道となったこのあたりのことが詳しく書き残されている。

 参謀渋沢平九郎は六尺豊かの偉丈夫で而も剣の達人であった。本陣陥落に際し、重傷の身にも屈せず単身囲みを破って逃れた。途中さる民家に立ち寄り、侍の衣装と大刀を預け、農民の着物を借り受けて変装した。ただ小刀だけは万一の場合の用意として風呂敷に包み、肩に背負って歩いた。平九郎は山を()じ、谷を渡り、川を越え、一心に道を急いだ。険阻(けんそ)な山道を跋渉(ばっしょう)した為め、草鞋はすり切れてしまったので裸足で歩いた。そして漸く高麗郡長沢村風影(ふかげ)(現・飯能市大字長沢風影)の義経、弁慶の伝説で有名な顔振(こうぶり)峠(土地の人は「かあぶりとうげ」という)の頂上に辿り着いた。峠には茶屋があって加藤たきという老婆が渋茶の接待をしてくれた。そこで平九郎は六銭の草鞋を一足買い求めて履いたのであった。老婆は「この旅人は飯能戦争の落人に違いない。」と見抜いていたので、
 「もしや貴方様は江戸のお侍様では御座いませんか。若しそうならば近く官軍のお侍様が大勢ここを通るとの事ですから中々油断はなりませんぞ。そのお荷物若し腰の物ならこの(ばばあ)にお預け下さいまし。」と頻りに勧めたが、平九郎はさあらぬ(てい)で、
 「いや、私は江戸の者ではない。秩父三峰の神主の倅だが、戦争のため吾野の通りが物騒故廻り道して行く所だ。この荷物はそんな危ない物ではない。」
と答えた。しかし門前の狼、後門の虎、背腹を皆敵に(やく)された平九郎は気が気でなく、老婆心尽くしの一杯の渋茶も半分残し、草履の代金六銭も支払わず「さらば」と言って立ち上がった。
 老婆は店先に立って指しながら、
 「そこに道を右へ降りると黒山から越生に出て中山道の熊谷に通じますが、越生には官軍様がいて物騒ですから左へ尾根伝いにお出でなさいまし。直ぐ秩父で御座います。くれぐれもお気を付けてお出でなさいまし。」
と言って安全な道を教えた。平九郎は思案した。
 「右へ降りようか。左へ曲がろうか。」
 然し「中山道の熊谷」と聞いて望郷の念に駆られた平九郎は思わず右に向って歩き出した。老婆が、
 「秩父は左ですよ」
 と注意したが耳に入らなかった。坂道を降る途中で坂を登って来る土地の人に出会った。草履の代金を払わなかったことを思い出した平九郎は、この人に「峠の茶屋に草履代を届けて頂きたい。」と言って金六銭を託したのであった。茶屋の老婆加藤たきは落武者から草履の代金をもらう心算(つもり)はなかったから請求もしなかったのであるが、義理堅い落武者の心の琴線に触れ、只管(ひたすら)その無事を祈るのみであった。


 こうして、平九郎は、茶店の老婆の進言を聞き入れ、農民姿に変装したうえ、大刀だけを預けたまでは善かったが、その後目指した山道が運命の別れ道となってしまった。なぜか老婆の進言する秩父は目指さず、あろうことか峠を越え黒山村(現・越生町)へと下って行った。

 老婆の心配は的中した。敗残兵の探索に当たっていた芸州藩神機隊の斥候三人と出くわしてしまったのである。
 平九郎は何食わぬ様子で通り過ぎようとしたが、怪しんだ一人から訊問を受けた。平九郎は予てより決めていた「私は秩父神社の神官です」と偽装を試みたが、そう簡単に見逃されるはずもなく、ますます怪しまれてしまった。
 三人に囲まれ押し問答を繰り返したのち、最早逃げられないと観念した平九郎は、潔く正体を明かし、懐中の小刀を抜きざま小頭と思しき一人に斬りつけた。一刀のもと左の腕が転げ落ちた。小銃を構えて向かって来た別の官兵にさらに斬りつけた。しかし、背後にいたもう一人に右肩を斬りつけられ、血しぶきを上げながらも、前方の官兵に斬りかかったが、その官兵は逃げながらも小銃を撃ってきた。その銃弾が平九郎の太腿を貫通した。平九郎はなおもひるむことなく小刀を振りかざしたので、恐れをなした官兵二人は傷ついた小頭を置き去りにしたまま逃げ去った。


 肩と太腿の二箇所に重傷を負った平九郎は、もうこれ以上動くことは叶わぬ、最早これまで…。傍らの岩ににじり寄って腰を下ろした。あらためて小刀を握り直し最後の力を振り絞って割腹し果てた。

 慶応4年/明治元年(1868)523日、時刻は夕方四時をまわっていた。平九郎は無念のうちに二十二歳の短い生涯をここに閉じた。この壮絶な闘いの一部始終を遠くから見ていた村人は、そのみごとなまでの武者ぶりに度肝を抜かれ、「脱走のお勇士様」「だっそさま」と呼んで語り継いだという。

 この悲惨な戦闘場面を医師の宮崎通泰(みちやす)が描いていた。宮崎は平九郎と闘った官軍負傷兵の治療に当り、負傷の理由を詳しく聞くうちに若い脱走士が勇敢に立ち向かい、最後は自刃したことを知った。それを一枚の絵にし、脱走士の懐中から出てきた和歌二首とともに書き残したと、「幕末武州の青年群像」(岩上進著 1991)に紹介されている。






渋沢平九郎昌忠(まさただ)戦闘図之記
明治元年戊辰五月廿三日、武蔵国比企郡安戸村医師宮崎通泰(みちやす)と云ふ人官軍之召ニ応じ入間郡黒山村ニ至り、軍士三人之創傷を治す、(しこう)して(その)負傷の由を問へしに、徳川脱走士一人装を変し来り、黒山村途上ニ官軍斥候士三人に逢ふ、糺問(きゅうもん)せられ脱すへからさるを知り、(おび)る処の小刀を抜て甲の一人を(はつ)り、振返して乙の一人に(きずつ)け、又転して丙の一人を撃ち、甲は(たお)れ、乙・丙は逃れ走れり、脱走士は路傍の磐石(はんじゃく)(きょ)し、屠腹(とふく)して死せり、(その)勇武歎賞すへしと云ふ、(すなわ)(その)状を図し又(その)懐中せし歌及八字を写し、帰途男衾(おぶすま)郡畠山人丸橋(まるはし)一之君に逢ふ、君之を乞へ得て家に蔵し人に示し話して歎賞す、十有余年の後榛沢郡中瀬(なかせ)村人斎藤喜平君に示す、君これを聞き嘆して(いわく)噫於(ああ)(その)脱走士ハ郷人尾高平九郎なりと、以て惇忠(じゅんちゅう)に告く、惇忠(じゅんちゅう)今玆(こんじ)六月丸橋君ニ邂逅(かいこう)し当時の情況を聞き此図(このず)を熟覩し感慨ニ勝す(たえず)、之を記して返す、平九郎実に惇忠(じゅんちゅう)の次弟にして、渋沢栄一養て((ママ))とせしなり、徳川幕府に仕へ一年にして戊辰の変に遭遇し、彰義隊に入り、閏四月廿八日江戸を去るに臨ミ、紙障に楽人之楽者憂人之憂食人之食者死人之事と書して出づ、(つい)に兆となりしなり

  明治廿三年七月武蔵榛沢郡八基(やつもと)村大字
  下手計人(しもてばかびと)藍香(らんこう)主人尾高惇忠(じゅんちゅう)識于仙怡寓居(しきうせんいぐうきょ)

文中、藍香とは尾高惇忠の雅号、また平九郎を渋沢栄一の弟としているが、これは養子のまちがいである。



 その後、平九郎の首は官軍方によって()ねられ梟首(きょうしゅ)台に晒された。地元の村人はもとよりこの武士の身元など知る由もなく、首と離れた亡骸は全昌寺住職が仮に「真空大道即了居士」と戒名を施し墓地に葬った。かたや晒し首は生越の村を転々としたが、哀れんだ仏心ある村人によって、洗い清められ法恩寺境内に埋葬された。

 町田尚夫氏(奥武蔵研究会)は、「奥武蔵に澁澤平九郎の足跡を探る」に多勢に無勢にも関わらず果敢に戦った平九郎の最期について、次のように書いておられる。

 衆寡(しゅうか)敵せず、頭取・渋沢成一郎(喜作)、副頭取・尾高惇忠(藍香)らは敗走する途中、旧横手村(現・日高市)、旧大野村(現・ときがわ市)などの村びとたちの、身命を賭した徳行に助けられて危難を脱し、官軍の追跡を逃れ落ち延びた。一方、参謀。渋沢平九郎は戦場で離れ、単身顔振峠を越えて黒山に到って官軍と遭遇、勇敢に立ち向かい一旦は退けたが、しょせん逃げられぬと覚悟を決め潔く自決、弱冠22歳で華と散った。




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