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ラ ブ ・ フ ォ ー テ ィ




加 藤 良 一


2002/3/23



 


 その日の蒸し暑さときたら、それはたいへんなものであった。8月の真っただ中、周囲が揺らいで見えるほどの炎天下であった。気温はぐんぐん上昇し、昼ごろには30度を越していた。ハードコートの固い表面からの照り返しが熱気とともに全身を刺す。たぶんコートのうえは60度くらいあったろう。コートに立っているだけで汗が吹きだしてきた。

 2、3時間プレイするうちに、あまりの焼けつくような暑さで途中リタイアする人 も出たし、そうでなくともかなりへばってしまった人が多かった。ふだんから暑さの なかでやり慣れているとはいえ、とにかく殺人的な天気である。なにもそこまでして テニスなんかやらなくたっていいだろうに、とテニスをやらない人は考えるであろ う。もちろん、そのとおりである。そのとおりではあるのだが、誰もオモテに出たが らないような真夏日に、当たり前のようにしてテニスをやりに行くのは、どうやら一 種の中毒症状に罹っているからにちがいない。

 人間の体というものは面白いもので、コンスタントに使っていると、慣れというか どんどん対応能力がアップしてくる。暑さに対しても同じことで、むしろ真夏にちょ っと涼しい日があったりすると物足りなさを感じる。果たしてこんなことを続けてい てカラダに悪くないか、ときどき心配になることがある。ちょっと自虐的すぎるだろ うか、けしてマゾ好みではないのだが。

 ぼくらのような週末テニスプレイヤーには、どうやら大きく分けて二通りのタイプ があるようだ。一つは、試合で勝つことをつねに念頭において、そのために「上達」を目標とする タイプ、そしてもういっぽうは健康やリフレッシュのためにテニスを楽しみたいタイ プだ。両者には共通点が多いものの、決定的に相容れない面もある。バリバリの上達 願望派だからといって仲間とのゲームを楽しまないわけじゃないし、リフレッシュの ためのお楽しみ派だってもちろんうまくなりたいと思っている。あくまでテニスとの 係わりの程度の問題なのだ。つまり上から下までいろんな人がいるのが町の素人クラ ブだ。だから、クラブ活動としては、そのあたりのバランスをとりながら両者の希望 をそれなりに叶えてやらねばならない。

 ぼく自身は、技術の上達にも健康管理や楽しみにも同じくらいに興味をもってい る。どちらがいいとか悪いとかいう問題ではないし、どちらか一方に片寄るのもどう かと思う。ようはバランス感覚が大切なのではなかろうか。
 テニスが上手な人は、それなりに練習を重ねた結果うまくなったわけで、多かれ少 なかれ一時期人知れず苦しさを我慢した経験を持っている。このような苦労の経験を 持っていない人を世の中では、天才と呼ぶ。あまりテニスがうまくない人は、うまくなるための手順を踏んでいない。上達する ためには、苦手を克服することを避けては通れないのだが、そのためには長くて単調 な練習というやっかいな障害がいつでも立ちふさがっている。それに真っ向から挑ま なければいつまでたっても解決することはない。
 もう一つ、練習のやり方で大きく効果が変ることを知るべきであろう。練習にあた って、いま、何を練習しているのか、何を鍛えようとしているのか自覚せずに、いく らめくらめっぽうボールを打ったってだめだ。そんなことをいくら繰り返したところ で、上達はむずかしい。場合によってはやらないに等しいことさえあるだろう。

 話しは少し変るが、似たような現象は、別の世界でも経験することがある。たとえ ば合唱音楽の世界である。日本では、ふつうの合唱団はほとんどの場合、ステージで 演奏することを中心に据えて活動している。ところが、海外ではちょっと事情がちが っている。男声合唱のメッカ、イギリスのウェールズ地方の村々には、その昔、ラグ ビーチームと男声合唱団がかならず一つづつあったという。現在でも多くの男声合唱 団が活動しているが、女声合唱団は少ないという。
 一日の勤めを終えた男たちにとっては、気晴らしに合唱を楽しむことが大切なので あり、ステージに乗ることなど二のつぎ三のつぎなのである。女声合唱団ばかりで、 男声合唱団が少ない日本とはかなり異質である。合唱自体を楽しむか、実力を上げて ステージを目指すか。どちらか一方に傾き過ぎるのはどうかと思うのは、テニスの場 合と同じような感じがするが、いかがであろうか。

 さて、テニスではカウントをコールするときに、得点がゼロのほうを「ラブ」とい う。ラブ・ゲームとは、つまり完封ゲームのことである。混合ダブルスならば文字通 り「男と女のラブ・ゲーム」である。では、このラブ love という言葉はどこからき たのであろうか。

 たまたま目にした英会話の本に、“to play for the love of game”(ゲームが好 きだから楽しいからやる)という意味から出てきたのではないか、というようなことが書かれていた。トランプなどのゲームで金品を賭けずに楽しむことを、“to play for love”というらしいが、どうやらここから出た“love”が語源のようである。つ まり、ゲームの基本は、お互いに楽しむためにやることが本来で、血まなこで勝負に こだわってやるものではなさそうである。もちろんプロともなれば、金も生活もかか るから、そうはいっていられないであろうが…。
 無得点を「ゼロ」といってしまっては、あまりに素っ気ないし、無機的である。こ れを「ラブ」と言い換えるあたりは、貴族中心に発展してきたテニスの歴史を思わせ るものがある。ちょっと気取った感じがしないでもないが、現代ではもうそんなこと もほとんど通じない感覚であろうか。

 それにつけてもテニスはずいぶんむずかしいスポーツである。上手い人のプレーは 見た目には簡単そうに見えるのに、ところが、いざ自分でやってみるとこれが意外と むずかしい。かれこれ20年以上もやっているのに、いまだに納得のゆくプレーがで きない。それだけ奥が深く、だからこそ一生続けていられるスポーツなのだと思う。

 



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