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食の町リヨンの味も忘れて






加 藤 良 一

2002/07/13

 


 

 リヨンへは、パリから TGV ならば2時間くらいの距離だが、バスでは休憩時間を含めて6時間以上かかった。もっともリヨンのジェルラン・スタジアム近くになると道路を封鎖し、厳重な検問体制が敷かれていたので、それだけでもかなりの時間を食ったからでもある。
 リヨンは、フランス有数の都市、ローヌ川とソーヌ川の二本の川が市内を流れる古い町である。「食の町」としても名高く、最高級レストラン「レオン・ド・リヨン」や名シェフ、ポール・ボキューズのレストラン「ル・シュッド」などがある。


 われわれワールドカップ・フランス大会観戦ツアーご一行様は、とにかく 、パリから一路リヨンのジェルラン・スタジアムへと直行した。バスは、スタジアムから歩いて20分ほど離れた大きな仮設の駐車場にたどりついた。
 われわれは、意気揚々とスタジアムに向かって歩いた。今日の試合はどうしても勝たねばならない。日本代表にとってのワールドカップ初勝利にむけたジャマイカ戦である。リヨンの空は青く澄んでいた。 日本でいえば梅雨と五月晴れのあいだに見られるような天気だが、時折晴れたまま雨がパラつく空模様だった。しかし、ここまで来て雨などにかまってはおれない。


 ツアー仲間には浴衣を着た女性もいて、それぞれ応援スタイルを決めていた 。中にはどう見てもサッカーの応援に行くというより、これからご出勤ですか、と聞きたくなるようなカッコの人もいた。どちらかというと若い人よりも年配者のほうに、日本代表のユニホームを着た人が多かった。
 スタジアムまでの途中でポリスの検問が何回かあった。入場チケットを見せなければ通してもらえない。その日のジェルラン・スタジアム周辺は、大会関係者とポリスと観戦客しかいないのではないかと思わせるような 厳戒体勢だった。





 

 しばらく行くとスタジアムが見えてきた。早く中に入りたいという衝動を抑えながら、人波に合わせて歩いた。スタジアムに近づくと軽快なドラムの音が聞えてきた。さらに近づいてみると、白人と浅黒い肌の色をした集団がそこにいた。それは、まちがいなくジャマイカの応援団だった。勇ましいドラムに会わせて抜群のリズム感で踊っていた。凄い迫力だ。敵はこんなものをリヨンに送り込んで来たのか。まさに機先を制された感じだった。
 ようやくスタジアムに着いた。入口にもポリスが立っている。そこでテニスプレーヤーの松岡修造に出会った。ふだんだったら話しかけるとか、サインを貰うとかするのだろうが、それよりもこちらは大試合を前にしているから 、たとえ松岡修造といえども話しかけようという気にもならず無視してスタジアムへ入った。
 チケットの半券を切り取られ、いざスタジアムの中に入った。席にたどり着いたのが午後3時過ぎ、試合開始まであと1時間だ。ピッチの上にはまだ選手は出ていなかった。観客席もまばらだ。とりあえず試合に間に合ったことで、一安心だった。スピーカーからは、リズミカルな音楽が流れ、いやが上にも雰囲気を盛り上げていた。
 ジェルラン・スタジアムは、1962年に建設されたフランス最古の競技場のひとつで、4万4千人収容の見事なスタジアムである。お土産にサッカーグッズを買おうかと思ったが、あまりの売店の混みようをみてやめにした。






 両チームの選手がピッチに姿を現し、一段と大きな声援がとんだ。日本代表は大きな輪になってストレッチを始め、つぎに二列になって動きのあるウォーミングアップに入った。ベンチのある正面スタンド側から、われわれのバックスタンドに向かってゆっくりと移動して来た。先頭には、秋田豊と井原正巳がいた。

 試合前のアップの方法は、国によってあるいはチームによって多様なやり方がある。ストレッチやウォーミングアップまではほぼ全員が同じメニューをこなすことが多く、そこからポジションごとに分かれてボールを使った練習に移るのが一般的だろう。
 ジェルランでの日本代表は、最後に軽くパスやシュートの練習をして終わったが、ちょっと気になったのが、中田英寿のシュートだった。このスタジアムは、サイドライン沿いは観客席が近いが、ゴール裏にスペースがあって客席まではけっこう離れている。中田はゴールバーをかなり越し、後ろの観客席に届くような精度の悪いシュートを何本か打っていた。
 あれでいいのだろうか。ずいぶん雑なシュートだが、思いきって蹴る練習だったのかも知れないと思ったりした。





 さて、試合の結果は、あえて言うまでもなく日本はとうとう一勝も出きずに終ってしまった。 いまでもあのジャマイカ戦は、勝てた試合だと思っている。いや、勝たねばならない試合だったのだが、12番目のプレーヤーであるわれわれサポーターにとって、まことに厳しい現実が目の前にあった。

 重い足取りでホテルに向かった。世界の遠さが身にしみた。これから2002年までに、日本はどこまで挽回できるのだろうか、考えるほどに暗澹たる気分に落ち込んでいった。

 金子達仁というジャーナリストがいる。サッカーに興味のある人はご存知だろう。金子さんは、ふつうのスポーツジャーナリストとはサッカーの見方がちがうように思う。金子さんの発言や著書に書かれたものを時系列で追うと、それがよく分かる。
 日本におけるサッカーの報道姿勢は、目の前の勝った負けたという現象に振り回されていて、まさにそのときどきで調子が千変万化している。まるで猫の目のようだ。しかし、金子さんは「世界のサッカー」というか「サッカーの世界」を知るが故に、目の前の一時的な現象に躍らされることのない確かな「目」を持っていると感じさせる何かがある。
 金子さんは、初めから岡田監督ではW杯を戦えないと言い続けていた。その主張は本選に入ってからも変わらず、素人監督では駄目だと言いきっていた。また、どうしても素人がやるなら、ジーコなり何なり経験者をそばに置くべきだと主張していた。あのブラジルのザガロ監督ですら、勝つためにジーコをスタッフに加えた。それに比べ、初めてW杯に出場する日本が独自でやるなどというのは、まったく無謀な話しだ、とつぎのように言い切る。
  「日本のサッカー界は1997年11月16日の思い出に必要以上に長く浸り過ぎ、その後の前進をまったく怠ってしまった。『決戦』はいつまで経ってもジョホールバルでのイラン戦を指し、W杯は最後まで『よくやったボーナス』のようなとらえ方をされていた。これは岡田監督だけの責任ではない。彼は明らかに能力不足だったけれど、でも、一生懸命やったのは間違いない。問題は、『一生懸命だから』との理由で結果を不問にするという、スポーツの本質からかけ離れた決断を下した日本サッカー協会であり、ひいては、それを許してしまった僕たちすべての責任なのだ」

 リヨン 市内のホテルに着いた。
 ホテル・ド・リヨン・メトロポールは、ゆったりと流れるローヌ河畔にある瀟洒なホテルだ。部屋も十分に広いし、設備も整っていた。シャワーを浴び、一休みしてから、さてどうするか。そういえば食事の時間になっていた。どこへ食事に行こうか。
 他のツアー仲間は、町に行くといっている。息子は食欲もあまりなさそうだ。どうしようかと迷った揚げ句、最後は面倒なので、ホテル内のレストランで済ますことにしてしまった。けっきょくそこで何を食べたかいまだに思い出せないでいる。



 





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