会計さんも大変である。試合の日の弁当と飲み物の買いだし、良くやる祝勝会、反省会等で、金の出入りは相当に激しいが良くやって呉れている。練習日には都合のつく人は早目に来てグランドを整備する。夏には内野グランドに散水をする。バッテイングマシンを、保管を依頼している近くの家から運び込み調整をしておく。マシンの保守管理は自動車整備士がやってくれる。
バッテイングマシンを持っていることは、うまくいっている要因の一つになっている。打撃練習が効率的に行え、下手な私にも同じチャンスが与えられるからだ。通常15球ずつ2回行う。ボールの磨耗度や汚れ具合で多少ばらつくが、殆どがストライクになる。高目や低目に設定することが出来る。
今年からストライクゾーンが高目に広くなったが、その対策をすることに非常に役だった。マシンを持っていないチームでは、コントロールが安定した投手は多くは無いので、どうしてもレギュラー中心の練習になり、下手な人は遠慮しなければならないそうだ。ボール係は毎回良く洗ったボールを持ってきてくれる。
私も含めて試合に出れる見込みの無い者も殆どの試合には同行する。試合前のレギュラーの練習のための球拾い、ノック等の補助、試合中のフアールボール拾い、コーチャー、スコアーブックの記録、他の試合の審判など何人いても足りない。私は主にバット拾いをやっている。打ったあとのバットは、次の打者が拾って投げ返すのが普通で、審判や相手チームの捕手が拾って投げ返す事も多いが、我がチームはバットは投げるべきでないとして、ベンチウオ−マーが拾うようにしている。
次打者が打つための神経を集中させる様にする配慮でもある。若い審判の場合、敬老精神のためか素早く拾ってくれる人が多いので、これを制するためには相当に走らねばならない。特に本格的な球場の場合、ベンチからホームべースまでの距離がたっぷりあるので、打った瞬間にダッシュしなければ間に合わない。これはかなりきついが鍛錬と思ってやっている。
好打が出た場合、つい打球を見とれて間に合わなくなることはある。バットを放す位置は打者により異なり個性がある。丁寧にすぐ近くにおいて呉れる人有り、三塁側に放り投げる人有り、未練がましく一塁ベース近くまで持って走る人有りである。この場合ベンチが3塁側だと走る距離は随分長くなる。
野球の面白さは何と言っても打撃にあるが、全日本野球連盟が定めた還暦用のルールは極めてバッターに不利になっている。すなわち公認球は一般用のA号(直径=73mm)ではなく、一回り小さいB号(直径=69mm)である。これだと投手は投げ易く、打者は空振りする確率が増え、その上ボールは飛ばない。さらにピッチャープレートとホームベース間が、一般の18.44mに対して16.30mと2m強短縮されている。これが実にこたえる。この短縮をスピードに換算すると一般の部での120Km/hrが136Km/hrに相当することになる。
昔の阪神タイガースは、巨人の沢村投手の豪速球を打つために、投手を1m近寄せて打撃練習をした。この方法は現在では広く行なわれているが、1m以上近づけると普通の球速に対するフォームが崩れてしまうとのことである。これらのルールが採用された理由は想像するに、還暦野球が盛んになる前は、投手が四球を連発して試合がスムースに進行しないことが多かったためと思う。しかし盛んになった現在考え直しても良いのではなかろうか。
打撃は水物であると良く言われてる。あの長嶋や王でさえスランプに襲われている。チームメイトも良く遭遇しているようである。当然私にもある。練習を調子良く終えにこにこして、打ったときの感触を忘れない様に毎日素振りを重ねて、次の練習に勇んで臨んでも全く打てないことが多い。
空振りが多く、ボンフライにしかならず外野まで飛ばない、ボテボテのゴロにしかならない等である。皆さんからいろいろなアドバイスを戴いた。右肩が下がり過ぎる、打つ瞬間にグリップが下がる、左手が逃げている、当てに行くだけで思い切って振っていない等数多い。これらを意識し打っていると多少は良くなるが、全てを意識した積りでもなにか一つの注意がおろそかになる。この様にして決定的な解決が為されないままその日が終わり、もやもやとして残る。
その後プロ野球のビデオを見てあることに気付いた。空振りのシーンを良く見ているとその多くは、バットが高目の球に対してはボールの下を、低めの球にはその上を通っているのである。フォークボールの場合が特にそうである。投球に対する人間の感覚がこの様になっているのなら、意識してこうならない様にすれば良いとの考えに到った。今まで打つとき、ボールを漠然としか見ていなかったが、以後高目の球はボールの上半分を、低めの球は下半分を意識して打つ様にしてみた。そうするとボンフライやボンゴロが随分減った。
また何年振りかでプロ野球を見に行った。早くから行って見た練習が非常に参考になった。実に理想的なスイングを繰り返し行っていた。各打者は多少の差こそあれ、共通しているのは必ず前で打っていることである。こうするとコースに関係なくセンター返しができる事に気付いた。そうするためには相当にフォームの改造を要するが、これに挑戦することにした。
試合では投球に順応するため殆どの場合、本来のスイングになっていな無いことも分った。しかし崩れながらも練習のときフォームが基本となっていることにも気付いた。
その後フォーム改造が進んで飛距離が伸びてきた。75mは飛ばせるようになってきた。次なる目標を90mと定めた。達成出来る可能性は殆どないが。
どのチームも参加できる全国的な大会もある。「お父さんの甲子園大会」と称し上田市が後援する大会が毎年2日間開かれている。この大会には全年代の計200チーム以上が参加する。4000人以上の選手が近くの温泉街に分宿する。開会式には工夫がこらされており、選手は入場行進のあとそのままスタンドに直行して座る。主催者・役員がグランドに出て式が始まる。
来賓は豪華で、ユニホーム姿の元横浜の監督の古葉さんやプロ野球のOB、羽田代議士が毎年、我々の行進を観閲して呉れる。来賓のスピーチは機知に富んでいて面白い。だが少しでも長いと強烈な野次が飛ぶ。毎年この野次を飛ばすことだけを楽しみに来る人もいるらしい。
隣接するチームとの交流も楽しい。これだけの人数での開会式は、初体験なので恥ずかしながら感動と興奮を覚える。2日間では全体の決勝戦までは出来ないので、8チームのブロックに分けてのトーナメントが行なわれる。この大会の特徴は全員が楽しく野球をエンジョイすることをモットーにしているので、その中での優勝戦までと敗者戦(=最下位決定戦)も行なわれ、全チームとも3試合出来る仕組みになっている。
またいろいろな特別ルールが設けられている。投手の投球は3イニング/試合に限定されているので、各チームは最低3人の投手を準備しなければならない。逆に日頃投げたくても投げさせてもらえない人の出番でもある。また攻撃に関しては、守備を免除された打撃専門の指名打者4人を加えて、13人で打つことになっている。
この大会が私にとって嬉しいのは12番や13番バッターとして晴れて出場できるチャンスがあるからだ。3年目の今年2試合に出場し、4打数2安打、1四球で盗塁も決めることが出来た。13番バッターになると各チームのエースが投げ終わったあとの第2、第3番目の投手と対峙したのだが、これを割引いても嬉しくてたまらなかった。
50以上の球場と、審判員など500人近いボランテイアを確保することは大変な苦労であったろうと思う。温泉街のシーズンオフ対策とは言え、主催者側の努力には敬意を表したい。因みに我がチームは3年連続して今年もブロック優勝した。
我がチームには、毎年還暦になったばかりの元気の良い人が入ってくることもあって、レギュラーを外れると退部する人も少なくない。私は最初からレギュラーになれるはずもないし、健康のためにやっているのだからなる必要もないと考えていた。しかし古希チームの先輩から「あなたは続けてやりますよね。毎年上手くなっていますから。古希チームで待っていますよ。」と言われて、そうだ、これを目標にすれば総合的に野球を研究できそうだと気付いた。
あと5年ある。打撃については今までどおりで良いが、守備はどこでも守れる準備を始めよう。投手は無理だが一応試してみたい。市営のテニスコートの練習壁を使えば個人練習も出来る。やめていく人は,単に技術が衰えたのではなく、膝、腰、肩に障害が出てきている様だ。昔かなり酷使したこともあるだろうが、昔の古傷がぶり返したそうだ。これらの部位は生涯利用回数が限定されている様である。
その点私はこれらをそれ程使っていないし、20年前の体力を取り戻しつつ、なお強化されていると感じるので心配なさそうだ。運動神経が悪いのは研究と記憶力でカバーしたい。
後記:
試合中ベンチウオ−マ−の皆と一緒に、相手・味方を問わず野次るのも楽しみの一つであったが、これはやめた。今年になってこれも誘われるままに混声コーラス団に入ったが、怒声的発声は、コーラスには極めて有害であるからである。
偶にしかやらないゴルフの飛距離が伸びていた。若い人も混じった団地のゴルフで、何年振りかでドラコンを取ることが出来た。
この年になって市内の10Kmマラソンに初挑戦した。ビリ集団ながら、制限タイムより30分早くゴールインできた。
ブラジルのサッカーチームが、練習後のアフターケア−に水泳を取り入れていると知って真似を始めた。その日の夕方泳ぐが、無重力に近い状態になるためか、翌日の肩や腰の関節のしこりが随分軽減されている様だ。水泳だけは多少やっていたので、マスターズ大会参加も再開した。長水路・短水路別に35種目ぐらいあるが、記録より全種目出場が目標。その目処は略ついたが、最大の難関は200mバタフライ。
終盤の会社生活は惨めであった。バブル崩壊後の景況下、グループとしての業績低下を少しでも食止めるために深夜まで働き、発狂寸前の状態で家に辿り着く日々が続いた。その時の夢をまだ見るが早く忘れてしまいたい。
人間も所詮は動物。適当に暴れて、皆と騒ぎ、歌い、酒を飲んでぐっすり眠る生活が一番ハッピイーであると実感する今日この頃である。
(完)