E-123



 加 藤 良 一
令和2年(2020)4月4日



 

 新1万円札とNHK大河ドラマで盛り上がる深谷市
 現在、埼玉県深谷市では地元出身の渋沢栄一が関わる二大イベントで大いに盛り上がっている。一つは、渋沢栄一が令和6(2024)に発行される1万円札の肖像画に選ばれたこと、もう一つは令和3(2021)NHK大河ドラマ『青天を()』の主人公に決定したことである。深谷市では渋沢栄一関連の施策を積極的に展開するため「渋沢栄一政策推進部」を設置して取り組み始めている。



 深谷市は人口約142千人、その地勢は、埼玉県北部の利根川と荒川に挟まれた地域に位置し、北部には、利根川などによって海抜約3040メートルの妻沼低地が形成され、中部から南部にかけては荒川によって形成されたやや高い洪積台地が広がっている。年間の気候は寒暖差が大きく、夏は太平洋高気圧による季節風の影響で暑く、隣りは「あついぞ!熊谷」で有名な熊谷市である。冬には北の群馬県赤城山から吹き下ろしてくる赤城(おろし)と呼ばれる乾燥した空っ風が吹いてくる土地柄である。

 康正2(1456)、上杉房憲(ふさのり)が櫛引台地の北端に深谷城を築いたのが始まりである。江戸時代には中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて9番目の宿場として、天保年間(1830-1840)には旅籠が約80軒も並ぶなど大いに発展した。
 現在は特産の深谷ねぎが日本一のねぎ出荷量を誇っている。また、良いか悪いかはとにかく、深谷が選挙区だった政治家荒船清十郎氏が運輸大臣在任時、国鉄に働きかけて深谷駅に急行列車を停車させたことで話題になった。
 1万円札の裏面には東京駅舎があしらわれている。東京駅は、かつて深谷市にあった日本煉瓦製造株式会社が生産した赤レンガを用いて建造されており、この会社の設立者が渋沢栄一である。


 渋沢栄一の人物像
 栄一は、天保11(1840)213日、武蔵国榛沢郡血洗島(ちあらいじま)村(現・埼玉県深谷市血洗島)に父、渋沢市郎右衛門美雅(よしまさ)、母エイの長男として生まれた。アヘン戦争が勃発した年である。今年でちょうど生誕180年を迎える。血洗島とはいささか不穏な地名だが、その由来については神話のようなものがいくつかあるという。例えば、赤城山の山霊が他の山霊と戦い片腕をとられ、その傷口をこの村で洗った、あるいは、落武者である渋沢一族の祖先がこの地に初めてやってきたとき、未開の地で荒れ果てていた、つまり「地荒れ島」からきている、また、近くの川が毎年のように氾濫し「地が洗われる」からきているのではないかなどいろいろある。
 幼名は市三郎栄二郎を名乗り、最後は栄一を名乗った。渋沢家はもともとは農家だったが狭い農地しか持たず、代わりに藍玉の製造販売や養蚕も手掛けて財を成した、いわば豪商だった。父市郎右衛門は武家になろうとしたこともあり、武芸や学問に長け、晩香と号するほど俳諧にも通じていた。栄一は6歳になると父から漢籍素読の教授を受けたが、抜群の記憶力と持ち前の知識欲とで見る間に習得していった。また、栄一は商売の中で多くの人と交わり、相手の立場に思いを致すことを学んでいたので、人に対する言葉使いも丁寧で、優しく接することが出来た。それが外交交渉でも発揮されたであろうと思われる。

 家業の藍葉(あいば)の買い入れや販売は、単なる農業の知識だけでは立ち行かない。常に算盤をはじく才覚や口説が必要だった。少年栄一は、父と共に信州や上州まで藍玉(あいだま)を売り歩きつつ、同時に原料となる藍葉を仕入れることもやった。14歳のあるとき、単身で藍葉の買い付けに出掛ける機会があった。ところが、子どもなど誰も相手にしてくれない。とりわけ栄一は小柄であった。見下されてはならぬといつも見てきた父のやり方を真似て、「この藍葉は肥料が悪いのではないか、十分乾燥していない、茎の選定方法に問題がある」などなど、思いつく限りの品定めを披露したところ、大いに感心され良い藍葉を大量に安く仕入れることに成功した。
 また、藍玉商法は原料仕入れから製品販売に至るまで年単位の期間が掛かるから、年間を通した経費の管理即ち経営感覚も欠かせない。この商売の経験がヨーロッパへ行った際、海外の新しい経済の仕組みを吸収しやすい素地を作り出したといわれており、また、帰国後の活動において現実的な合理主義思想に繋がったともいわれている。視察団に同行した他の武士にはまったく望めないことであった。


 百姓をやめる
 栄一が青年になった頃、地元の代官所から渋沢家に呼び出しが掛かった。その時、栄一の父親は体調が優れず床に臥せっていたので、代わって栄一が出頭した。代官所ではふんぞり返った役人が物々しく 「これ百姓、この度はお姫様がおめでたくお輿入れなされる。諸事物入りであるによって、そのほうへ御用金を申し付ける。名誉なことじゃ有難くお受けするように致せ。」 と言い放った。用事とは、御用金五百両の申し付けであった。年貢の他にも事あるごとに御用金の催促である。栄一は、理不尽な取り立てを黙って受けることはできなかった。そこで、あくまで自分は父の名代であるから帰宅後父によく伝えると答えたが、それを聞いた役人は烈火のごとく怒り、農民と思って見下す横柄な態度で栄一に迫った。しかし、怒る役人をなんとか凌ぎ、帰宅後父にそのことを伝えるも、地頭と泣く子には勝てないと諭され、翌日には御用金を届けることになった。
 この一件以来、栄一は武士の驕り、武士と農民の身分の差に対する反抗心が燃え上がった。なぜ百姓がこんなに虐げられねばならないのか、いつか見返してやると決心した。武士の世の中、官尊民卑の厚い壁をなんとしてもぶち壊すのだと、栄一は心に強く誓った。

 その後、攘夷の志士とならんと江戸へ出向き、学問や武芸を研くことになった。まさに嫌っていたはずの武士になろうとしたのである。なぜか。それは農民のままでいたのでは武士に立ち向かうことは叶わない、まずは虎穴に入らずんば虎児を得ずの心境であった。
 栄一は江戸滞在中に、一橋家の用人平岡円四郎の知遇を得ることとなった。一橋家は幕府の親藩、当主徳川慶喜は水戸の出身で尊王の思いを抱く名君であった。そこにおいて平岡は、天下の権朝廷にあるべくして幕府にあり、幕府にあるべくして一橋にあり、一橋にあるべくして平岡にあり、とまで評される実力者であった。その平岡に百姓の出にしては見所のある奴と目を掛けられ、慶喜に面通しが許された結果、一橋家の家臣となった。思わぬ流れから幕臣の身となった栄一は、そもそもの倒幕の主義主張とは裏腹の事態となり、胸中如何ばかりかとは思うが、それなりの柔軟さによって清濁併せ呑んだ結果に相違ない。しかし、傍目(はため)には、なんという変節漢かと思われても致し方なかったが、明治維新を目前にした激動の世の中、勝てば官軍敗ければ賊軍といわれたご時世である、結果的に風見鶏のように処したことになっても恥じることではなかった。

 栄一は、慶喜の将軍就任を受けて一転して幕臣になったものの、石高もたかが知れた下役しか回ってこない日々に意気消沈してしまった。そのとき栄一の人生最大の転換点が訪れた。慶喜の弟昭武が、フランスで行われるパリ万博の視察に行くその随行を命じられたのである。気力を失いかけていた栄一にはまさに吉報であった。慶応3(1867)1月、横浜から出発し、その後2年近いヨーロッパでの体験がその後の栄一の活躍に大きく関わっている。


 衝撃のヨーロッパ体験
 パリに到着後、栄一は巨大な西欧文明を目の当りにし、すべてが衝撃の連続であった。万博が終わったあと、視察団一行は欧州巡歴の旅に出た。日本ではせいぜい馬や駕籠が交通手段であったが、あちらでは見たこともない巨大な鉄道が主な移動手段として活躍していた。栄一はその利便性に驚くとともに大きな感銘を受け、日本にもぜひ導入したいと思った。
 さらに驚いたのは、欧州では鉄道はじめ水運、紡績、鉄工業などのさまざまな大事業が民間レベルで運営されていたことである。つまり日本にはない株式会社組織として社会から広く資金を集めて運営し、それをバックアップする銀行があることも知った。栄一は、このような合理的な文明と仕組みを一刻も早く日本に取り入れなければ、世界から取り残されると思い知った。
 栄一の気は焦るばかりであったが、取りあえず彼の国の言葉を学ぶのが先決と語学取得にも力を入れた。フランス社会へ同化するため、丁髷(ちょんまげ)を切り落し、洋服に着替え、帯刀もやめた。丁髷をやめ洋装に身を包んだ写真を日本に送ったところ、それを見た妻は驚天動地の思いであった。あれほど西洋人を夷狄(いてき)と非難し毛嫌いしていた夫が、その姿を真似るとは一体どういうことかと大いに訝しがったのである。

 使節団一行の欧州滞在は約1年半であった。西欧の社会・経済の仕組みを学ぶには十分とはいえなかったが、それでも栄一にとって海外事情を体得するには十分な時間であった。いっぽう、その頃日本では大きな政変があり、徳川慶喜が朝廷に政権を返上する大政奉還が起きていた。ほどなく新政府から栄一に帰国命令が下った。

 栄一が帰国した慶應4年/明治元年(1868)11月には江戸幕府は跡形もなく消え失せ、替わって新政府が国を治めていた。青天の霹靂であった。まさに浦島太郎であった。その年の5月には、戊辰戦争の一環である武藏国における飯能戦争において、彰義隊から分裂した振武軍が戦って壊滅していた。振武軍には栄一が自分の洋行に備えて見立て養子とした渋沢平九郎がおり、飯能の地で無念の自刃を遂げていたのだが、そんなことは知る由もなかった

 
歴史にもしもという仮定は成り立たないかも知れないが、栄一がもう半年前、つまり飯能戦争前に帰国していたなら、ほぼ間違いなく振武軍に加わり、渋沢成一郎や尾高惇忠、そして義理の息子である渋沢平九郎と共に戦場に身を置いたはずである。もしそうであったら、その後栄一が日本経済創設の礎になることもなかったであろう。見方を変えれば栄一は強運の持ち主でもあったといえる。


 意外に知名度が低い渋沢栄一が新1万円札の顔に
 令和6(2024)上半期に紙幣が一新される予定となっている。千円と5千円札は20年振り、1万円札は昭和59(1984)に聖徳太子から福沢諭吉に変わって以来40年振りのリニューアルとなる。
 紙幣の図柄は「老若男女が使うものであることから、一般的に良く知られている人物を採用」「一般的にも、国際的にも知名度が高い」などの採用基準があるようだが、栄一はその功績の大きさの割にはあまり知られた人物ではない。



 新1万円札の裏面には東京駅舎があしらわれる。東京駅はかつて深谷市にあった日本煉瓦製造株式会社が生産した赤レンガを用いて建設されており、この会社の設立者が渋沢栄一であった。
 栄一は、明治から昭和にかけ、日本の産業界を牽引した実業家となった。第一国立銀行(現みずほ銀行)や、王子製紙(現王子ホールディングス)、東京海上保険(現東京海上日動火災)、帝国ホテルなど、約500もの企業の設立に関わり、さらに600の社会公共事業にも関わっている。それゆえ「近代日本資本主義の父」と呼ばれているのだが、設立などに関わった事業があまり多いために、かえって功績がよく分からない人物となっているのではないかともいわれている。さらに、栄一はどの事業でも自分が中心に立つのではなく、あくまで人を動かして支援する立場にいたことが目立たないということにつながったのかも知れない。
 栄一は、欧州で学んできた資本主義を日本に紹介することに心を砕いた。全国にバラバラに存在する小さな資本でも一つに集約することで、大きな資金となり経済を動かせる。つまり、それが第一国立銀行の設立という形になった。
 初めて銀行というものに接した人々にその仕組みを理解させるのに、例え話として、銀行を大きな河に例え、銀行に集まってこない金は、そこらの溝に溜まっている水と変わりなく、そのままでは金本来の効果は出て来ない、と話したそうである。
 このようにして、銀行という仕組みを最初に日本に創り上げた栄一の功績はとてつもなく大きいものとなった。今多くの銀行が、収益環境の悪化などで大きな課題を抱えている。こんな時だからこそ、1万円札に渋沢栄一が選ばれた意義は大きいといってもよいのではなかろうか。また、晩年は民間外交にも力を注ぎ、ノーベル平和賞の候補に2度も選ばれている。


 NHK大河ドラマ『青天を()け』
 青天を衝け』は、令和3(20211月から放送予定のNHK大河ドラマである。「日本資本主義の父」とも称される渋沢栄一主人公に、幕末から明治までを描く。『青天を衝け』というタイトルは、渋沢自身が詠んだ次の漢詩の一節から採ったという。

衝 青 天 攘 臂 躋
気 穿 白 雲 唾 手 征


  青空をつきさす勢いで肘をまくって登り

  白雲をつきぬける気力で手に唾して進む


 チーフプロデューサー菓子浩氏によれば、「今の閉塞感が感じられる時代だからこそ、大きな時代のうねりを描きたいと思って、幕末から明治を題材に選びました」と説明している。さらに「渋沢は主役候補に挙がっていたが、一万円札の肖像に決まったという発表が後押しになった」と新紙幣の肖像に採用されたことも決定理由の一つとなったと認めている。


 深谷こころざし読本~三偉人の心を紡ぐ~
 歌劇<幕臣・渋沢平九郎>のオープニング、武藏国深谷の子どもたちがわらべ歌のようなものを歌う場面があり、それを深谷市立八基(やつもと)小学校と幡羅(はたら)中学校の子どもたちにお願いすることになっている。

 八基小学校の笠原直史校長にご挨拶に伺った際、校長室の書棚に「深谷こころざし読本~三偉人の心を紡ぐ~」という副読本が並んでいた。帰りがけにその本をお借りしてきた。それは、深谷市教育委員会が発行する小学校高学年向けの教材で、渋沢栄一尾高惇忠(じゅんちゅう)韮塚直次郎の三偉人を紹介し、その功績を讃えるものであった。


  




 渋沢栄一については 「各種産業を育てるとともに、会社を興すなど近代日本の国づくりを推進しました。また、実業界を引退した後も教育や社会福祉、国際親善に力を尽くしました。これらの業績を挙げることができたのは、栄一翁が生涯を通じて、「立志の精神(夢とこころざし)」と「忠恕(ちゅうじょ)の心(まごころと思いやり)」 を大切にしていたからです。」と書かれている。

 尾高惇忠については、平成26(2014)に世界文化遺産に登録された群馬県の富岡製糸場を設立し、初代工場長を務めた人として紹介している。巨大な工場は当時まだ珍しかったレンガ作りで窓にはガラスが使われていた。フランス人を呼び寄せ指導を受けながらの立ち上げであったが、工女を募集しても一向に集まらなかった。よくよく調べてみると、「若い娘ばかり募集しているのは、その娘の生き血をとって飲むためだ」などととんでもない噂が広がっていたという。指導に来たフランス人が好んで飲む赤ワインを人の生き血と勘違いしたものらしいが、明治5(1872)当時はそんな状況であった。とにかく噂を払拭し人を集めねばならない。そこでまだ14歳だった自分の娘ゆうを工女第1号として採用したところ、立派に勤めるその姿を見た深谷の少女たちは大いに安心し続々と集まるようになったという。

 三人目の韮塚直次郎は、富岡製糸場建設のために、深谷の瓦職人や大工を引連れて行った人物である。製糸場はレンガ作りにするというが、その頃日本にはまだレンガなどなかった。直次郎は苦心の末、粘土を近くの甘楽(かんら)町に見つけ、幾多の実験を繰り返して、ようやく丈夫なレンガの本格製造に漕ぎ着けた。

 深谷市では郷土の偉人として子どもたちにその功績や遺訓などを伝える教育に力を入れている。さらには論語まで採り入れているのは小学校にしては珍しいのではないか。さすが渋沢栄一の地元深谷ならである。


 深谷で出会った人びと
 私が、歌劇<幕臣・渋沢平九郎>の顧問を務めている関係もあり、脚本の酒井清氏、事務局の齊藤則昭氏、小山充子氏に連れられ深谷の市役所はじめ、教育委員会、渋沢栄一翁と論語の里ボランティアの会、商工会議所、深谷シネマ、渋沢栄一記念館、渋沢栄一生家、尾高惇忠生家などの関係先へご挨拶に伺った。
 中でも、「渋沢栄一を生んだ『東の家』の物語─渋沢栄一出世のルーツを探る─」、「渋沢栄一とその周辺」、「渋沢栄一─父と子の物語─」、「渋沢栄一のめざしたもの」、「もっと知りたい渋沢栄一 Q&A1集」など多数の著作がある、渋沢栄一研究の第一人者新井慎一氏には多くのことを教えて頂いた。新井氏は、深谷市文化財保護審議会会長や市議会議員(副議長)を歴任され、現在は深谷市郷土文化会会長、渋沢栄一顕彰事業株式会社代表取締役などの要職のかたわら、詩集「母への遠景」の上梓、深谷市郷土文化会会報「故園」の発行など幅広い活動をされている。


  


 また、奇遇といえるほどの出会いもあった。子ども合唱をお願いしている幡羅(はたら)中学校の音楽教諭
印東公民先生は、私が以前埼玉県合唱連盟で理事をやっていたときに同じ理事として仕事をしていた仲なので大変心強いものである。

 来年2月6日の歌劇本番に向け、深谷へは何度も足を運ぶことになろう。


     ◆ 謝 辞 ◆
 本稿の作成にあたり、多くの方々のご指導ご協力を仰ぎました。とりわけ、渋沢栄一研究の第一人者である新井慎一氏には懇切丁寧なご指摘を頂き、渋沢栄一やその一族に対する理解をより一層深めることができました。あらためてお礼申し上げます。



なんやかやTopへ       Home Pageへ