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武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり

渋沢平九郎の自害を考える



加藤良一 令和2年4月8日



 慶応4年/明治元年(1868) 5月戊辰戦争の一環として武蔵国(埼玉県)で振武軍と官軍の戦争があった。これはのちに飯能戦争と呼ばれている。この戦で、振武軍の若き武士渋沢平九郎が、本隊と離れ一人山中を彷徨するうち官軍と出くわし、壮絶なる攻防の末に重傷を負い、もはやこれまでと路傍の岩に腰かけ切腹し短い生涯を閉じた。
(このことについては<歌劇・幕臣 渋沢平九郎その13>に詳しく書いておいたので参考までにご覧頂きたい。)

 平九郎が切腹したのは、武士に課せられた規律すなわち武士道によるもの以外に思いつかない。肩に深い刀傷を負い、さらに太腿を砲弾が貫通し、どうにも抗いようがない状態になってしまった。そこで命乞いをしてみたところで、痛手を受けている官軍兵士が許すはずもない。最期は自分で始末をつける以外に考えられなかった。それが平九郎が学んできた武士道というものだったにちがいない。

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本稿では、武士と切腹との関係について考えてみたい。現代に生きるものにとって、その昔の武士が潔く切腹する理由はいまひとつ理解しにくいところがある。江戸中期の肥前鍋島藩の山本神右衛門常朝(1695-1719)が、武士の生き様について語った談話を、門人の田代陳基(つらもと)が他からの聞き書きなどを加えて整理した、武士の修養書ともいえる『葉隠』という書物がある。「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」がつとに有名な言葉であり。武士のみならず日本人の死生観に迫るものがあるとされている。

 かたや、新渡戸稲造が明治32(1899)に著した『武士道』は元々英語で書かれたもので、タイトルは『BUSHIDO, THE SOUL OF JAPAN』である。
その最初の翻訳は明治41(1908)桜井鴎村(おうそん)によってなされているが、漢文漢字の素養なくしては読み難い文章であったことから、昭和13(1938)矢内原忠雄が新たに読みやすく訳しなおしている。

 新渡戸が『武士道』を書いた明治32年といえば、日清戦争の4年後、日露戦争の5年前という時代であり、日本に対する世界の認識はまだ「極めて幼稚なる時代であった」と矢内原は序に認めている。
「新渡戸博士が本書に横溢する愛国の熱情と該博なる雄勁(ゆうけい)なる文章とをもって日本道徳の価値を広く世界に宣揚せられたことは、その功績、三軍の将に匹敵するものがある。」(※雄勁:簡潔で無駄のないこと)

 そもそも『武士道』を書くに至った理由は、ベルギーの法学の大家ド・ラヴレーの許で過ごしたが、ある日の散歩の際、話題が宗教の問題に向いた。

「あなたのお国の学校には宗教教育はない、とおっしゃるのですか」と教授が質問した。
「ありません」と答えるや否や、彼は打ち驚いて突然歩みを止め、
「宗教なし! どうして道徳教育を授けるのですか」と繰り返し言ったが、その時は、まごついて即答できなかった。というのは、新渡戸が少年時代に学んだ道徳の教えは学校で教えられたのではなかったからであった。

 その後、さまざまに考え続けた結果、ようやくそれが武士道であることに思い至ったという。そして『武士道』執筆の直接的端緒は、妻であるアメリカ人女性メアリー・エルキントン(日本名:万里子)が、日本に広く行われる思想や風習の理由をたびたび訊ねることに対する回答でもあった。その中から、「封建制度および武士道を解することなくんば、現代日本の道徳観念は結局封印せられし巻物であること」を知ったのである。

 新渡戸は、武士道』の中で万一キリスト教に話が及んで侮蔑的な表現があろうとも、キリスト教そのものに対する彼自身の態度が疑われることはないと信ずるとしており、キリスト教に同情を持てないのは、ひとえに教会のやり方や、教訓を暗くする諸形式であって、教訓そのものではない。私はキリストが教え、かつ『新約聖書』の中に伝えられている宗教、ならびに心に(しる)されたる律法を信ずる。さらに私は、神がすべての民族および国民との間に──異邦人たるとユダヤ人たると、キリスト教徒たると異教徒たるとを問わず──『旧約』と呼ばるべき契約を結びたもうことを信ずる。私の神学のその他の点については、読者の忍耐を煩わす必要がないと序文で宣言している。

 新渡戸は「第十二章 自殺および復仇(ふっきゅう)の制度」で切腹敵討(かたきうち)の詳細に触れている。ここでは切腹についてのみ考えてみる。また、自殺を即ち「切腹・はらきり」に限定している。
「腹を切る? 何と馬鹿げた!」と、外国人の耳には馬鹿げて奇怪に聞こえるかも知れないが、シェイクスピアを学べば、そんなに奇異なはずはないというのが新渡戸の言わんとするところである。
 なんとなれば、プルトゥスの口をして「汝(カエサル)の魂魄現われ、我が剣を逆さまにして我が腹を刺しむ」と言わしめていることを引き合いに出す。さらには、「ジェノアのパラッツォ・ロッサにあるゲルチーノ筆カトーの死の画を眺めよ。アディソンがカトーをして歌わしめたる絶命の歌を読む者は、深くその腹を刺したる剣のことを嘲るものはないであろう。我が国民の心には、この死に方は最も高貴なる行為ならびに最も切々たる哀情の実例の連想がある。したがって我らの切腹感には何らの嫌悪も、いわんや何らの嘲笑も伴わないのである。」とも強調する。


 功名心ある武士は、「自然の死に方をもってむしろ意気地なき事とし、熱心に希求すべき最期ではない」と考えた。(いにしえ)を辿れば、哲学の始祖ソクラテスの死は半ば自殺であったと言えなくもない。なぜか、ソクラテスはいくらでも逃げ出すことができたはずだが、そうしなかった。道徳的に間違った命令ではあるが、国家の命令とあらば進んで受け入れた態度に自殺行為を見ることができる。裁判官の判決は「汝死すべし。しかしそれは汝自身の手によるべし」であり、自殺であったことは明白であるが、自殺を嫌悪していたプラトンは、師であるソクラテスの死を自殺とは呼ばなかったという。

 日本における切腹は単に自殺の一方法ではなく、法律ならびに礼法上に制度化されていたところに特徴がある。それは武士が罪を償い、過ちを謝し、恥を免れ、友を(あがな)い、自身の誠実を示す手段であった。したがって、刑罰として切腹を申し渡されたときは、厳粛なる儀式をもって執行された。それは極めて洗練された自殺であり、見届ける者が多数取り囲む中、冷静さを極めて粛々と実行された。

 一例として、外国人が目撃したという実例が紹介されている。
 
「我々(七人の外国代表者)は日本検使に案内せられて、儀式の執行さるべき寺院の本堂に進み入った。それは森厳なる光景であった。(中略)高い仏壇の前には床の上三、四寸の高さに座を設け、美しき新畳(にいだたみ)を敷き、赤の毛氈が拡げてあった。ほどよき間隔に置かれた高き燭台は薄暗き神秘的なる光を出し、ようやくすべての仕置を見るに足りた。七人の日本検使は高座の左方に、七人の外国検士使は右方に着席した。それ以外には何人(なんびと)もいなかった。
 不安の緊張裡に待つこと数分間。滝善三郎は麻(かみしも)の礼服を()けしずしずと本堂に歩みいでた。年齢三十二歳、気品高き威丈夫であった。一人の介錯と、金の刺繍せる陣羽織を着用した三人の役人とがこれに伴った。介錯という語は、英語のエクシキューショナーexcutioner(処刑人)がこれに当る語でないことを、師っておく必要がある。この役目は紳士の役であり、多くの場合咎人(とがにん)の一族もしくは友人によって果たされ、両者の間は咎人と処刑人というよりはむしろ主役と介添えの関係である。この場合、介錯は滝善三郎の門弟であって、剣道の達人たる故をもって、彼の数ある友人中より選ばれたものであった。」

 このあと、一通りの辞儀などを済ませると、やがて白紙に包まれ三宝に載せられた脇差が咎人に差し出される。咎人は、一礼とともにこれを恭しく受け、両の手にて頭の高さにまで押し頂き、自分の前に置いた。咎人は、いささかの感情と躊躇とを示しながらも、顔色を変えることもなく語った。

「拙者唯だ一人、無分別にも(あやま)って神戸なる外国人に対して発砲の命令を下し、その逃れんとするを見て、再び撃ちかけしめ候。拙者今その罪を負いて切腹致す。各方(おのおのがた)には検視の御役目御苦労にし候」

 またもや一礼終わって善三郎は上衣を帯元まで脱ぎ下げ、腰の辺りまで(あら)わし、仰向に倒れることなきよう、型のごとくに注意深く両袖を膝の下に敷き入れた。そは高貴なる日本士人は前に伏して死ぬべきものとせられたからである。彼は思入(おもいいれ)あって前なる短刀を()かと取り上げ、嬉しげにさも愛着するばかりにこれを眺め、暫時最期の観念を集中するよと見えたが、やがて左の腹を深く刺して(しず)かに右に引き廻し、また元に返して少しく切り上げた。この凄まじくも痛ましき動作の間、彼は顔の筋一つ動かさなかった。彼は短刀を引き抜き、前にかがみて首を差し伸べた。苦痛の表情が始めて彼の顔を()ぎったが、少しも音声に現れない。この時まで側に(うずくま)りて彼の一挙一動を身じろぎもせずうち守っていた介錯は、やおら立ち上り、一瞬大刀を空に()り上げた。秋水一閃、物凄き音、どう(たお)るる響き、一撃の下に首体たちまちその所を(こと)にした。
 場内寂として死せるがごとく、ただ僅かに我らの前なる死に首より(ほとばし)りいずる血の凄じき音のみ聞こえた。」

 これが切腹の典型的な一部始終であろうか。しかし、新渡戸は、名誉のために切腹をすることが軽く扱われ、死に急ぐ青年武士が数多く出たことには遺憾の意を示している。命が軽んじられる場合については、その精神はいわば純金ではなく、いくらかの異物が混じっていたのではないかと非難する。
 
「しかしながら真の武士にとりては、死を急ぎもしくは死に媚びるは等しく卑怯であった。一人の典型的なる武士は一戦また一戦に敗れ、野より山、森より洞へと追われ、単身餓えて薄暗き木のうつろの中にひそみ、刀欠け、弓折れ、矢尽きし時にも──最も高邁なるローマ人〔プルトゥス〕もかかる場合ピリピにて己が刃に伏したではないか──死をもって卑怯と考え、キリスト教殉教者に近き忍耐をもって、

    憂き事のなほこの上に積れかし
    限りある身の力ためさん

と吟じて己れを励ました。かくして武士道の教うるところはこれであった──忍耐と正しき良心とをもってすべての災禍困難に抗し、かつこれに耐えよ。」

 以上のことをもって切腹の本質が理解できたかと言われれば必ずしもそうではないかも知れない。しかし武士と切腹との関係に多少は近づけた気がする。

 ところで、新渡戸の『武士道』について異を唱える方もいることも忘れてはいけない。それは、映画評論家、文明評論家にして平河総合戦略研究所代表の奥山篤信氏である。氏の『人は何のために死ぬべきか キリスト教から読み解く死生観 (2014)は大変面白い著書である。氏は、京都大学工学部建築学科を卒業後、東京大学経済学部を経て上智大学大学院神学研究科を修了するというやや変わった経歴の持ち主である。

 奥山氏は、新渡戸稲造の『武士道』は近代思想の産物であるとつぎのように指摘する。
 
「武士道は、第一義に戦闘者の思想である。したがって、新渡戸をはじめとする明治武士道の説く「高貴な」忠君愛国道徳とは、途方もなく異質のものである。とはいえ、武士道が全く道徳と相いれない暴力的思想であるわけではない。武士道ももちろん、ある種の道徳を含み持っている。だがそれは、一般人の道徳とは大きく異なる道徳である。平和の民にはおよそ想像を超えた異様な道徳。それが、武士道の道徳なのである」

 なるほど、この主張は大変興味深いものだが別の稿に譲ることとしたい。




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