M-168-13

 



そ の 拾参(じゅうさん) 【完】

13

加 藤 良 一

2020329日



人の楽しみを楽しむ者は、人の憂いを憂う…
・平九郎自決の地
・行くへ知れずの平九郎の首
・首と分れた胴体は法恩寺へ


人の楽しみを楽しむ者は、人の憂いを憂う…

平九郎自決の地


平九郎が自刃したとされる岩

 平九郎が割腹した最期の瞬間を高麗(こま)博茂編纂の「飯能戦争秘話」では次のように書かれている。

嗚呼(ああ)進退(きわ)まった。『死すべき時に死せざれば死に勝る恥あり。』と古人も言ったが、生きて縄目の恥を受けるよりは死するに()かず。」と覚悟を決め、路傍の巌石に腰を掛け、腹真一文字に掻き切って相果てたのであった。時に明治元年五月二十三日(太陽暦七月十二日)羊の刻(午後二時)、平九郎の(よわい)僅かに二十二であった。
 平九郎は明治元年閏四月二十八日(太陽歴六月十八日)江戸を去るに望み、我が家の障子に次の句を書き遺した。

 楽人之楽者。憂人之憂。(人の楽しみを楽しむ者は、人の憂いを憂う。)
 喰人之食者。死人之事。(人の食を喰(は)む者は。人の事に死す。)

終に前兆となったのであった。


            渋沢栄一生家に建てられた澁澤平九郎追懐碑


行方知れずの平九郎の首
 平九郎の()ねられた首は、晒し首となってあちこち転々とした挙句、最後は哀れんだ仏心ある村人によって法恩寺境内に埋葬されたことは、<その拾弐12>で述べたが、この村人とは、島野喜兵衛と横田佐平という人物であった。

 しかし、賊軍の落武者の首を埋葬して弔うなどということは、官軍にとって許し難いことは明らかだったから、二人は仕打ちを恐れ、墓標も卒塔婆も立てられないまま隠密裏に埋葬するしかなかった。そのような避けがたい訳があったから、その後誰に話すこともなく、もちろん家族にも話さずじまいだった。従って、現在に至るまで平九郎の首の埋葬場所は不明のままであるという。
 ひとつ手掛かりらしいことは、島野喜兵衛が後に長男の卯吉にその時の模様を伝えていたという事実談である。

「飯能戦争のとき落武者が(さら)し首になったが、可哀想だった。しかもその首が越辺(おつべ)川の河原や堰の上に転がっていたので横田さんと二人で夜コッソリと法恩寺の墓場にうめたことがあったョ。その時は恐ろしかったが、今になって見れば善い功徳を施したと思っているョ。」
と語ったというから、法恩寺の墓地内に埋葬されたことは間違いない。首を埋めた場所について島野卯吉氏は、
「私の想像ですが。首を埋めた場所は法恩寺の墓の入口にお地蔵様が建っているでしょう。あの附近だったろうと思いますよ。何故かと言いますと、あのお地蔵様は島野家で宝暦年間に建てたもので、あそこならよその家から苦情を言われる心配はありませんから。」と語っておられる。
「飯能戦争秘話」



渋沢平九郎埋首之碑埼玉県越生町・全洞院境内


 
町田尚夫氏(奥武蔵研究会)ご自身が平九郎の足跡を訪ね歩いた記録「奥武蔵に澁澤平九郎の足跡を探る」(『青淵』渋沢栄一記念財団月刊誌)によれば、首の埋葬場所は次のような状況である。

 越生(おごせ)町役場東方の曲がりくねった旧道に、菊屋の坂と呼ばれる辻がある。菊屋とは当時の料亭の名前で、芝居小屋・越生座を経営していた。かつてここにあった髙札場に平九郎の首がさらされた。数日後、近くの越辺(おつべ)川の河原に転がっていたので、それを哀れんだ越生宿の島野喜兵衛、黒岩村の横田佐平の両氏が、首級を洗い清め夜穏ひそかに法恩寺に葬ったという。
(……)
 没後九六年後の昭和三九年秋彼岸、首塚と呼ばれるこの場所に、越生町および地元諸団体により、平九郎の冥福を祈りその事跡を永く伝えるため「澁澤平九郎埋首之碑」が建てられた。題字は渋沢栄一の甥で名古屋帝大初代総長を務めた渋沢元治(もとじ)の筆で、平九郎への畏敬の念がにじむ雄渾(ゆうこん)な筆致である。

 
首と分れた胴体は法恩寺へ
 いっぽう、全洞院に埋葬された胴体のほうは以下のようである。

 首をはねられた平九郎の胴体は、黒山の人達により手厚く全洞院に埋葬された。この時は落武者が何びとかわからず、住職は位牌の表に「真空大道即了居士位慶應四戊辰年五月二十三日」、裏に「俗名不知(しらず)江戸之御方(にて)候於黒山村打死」と記して(ねんご)ろに弔った。村びとは壮烈な死を悼み「脱走様(だっそさま)」と呼んで(あが)めたという。


埼玉県越生町・全洞院にある平九郎の墓


振武軍の足跡
 最後に彰義隊発足から振武軍の結成・陥落に至るまでの一連の動きを概括しておく。

 慶應四年/明治元年(1868)戊辰
二月 二十二日  浅草本願寺において彰義隊を結成(頭取渋沢成一郎、副頭取天野八郎)
四月 三日  彰義隊上野寛永寺に移る
四月 十一日  江戸城明け渡し(無血開城)
閏四月 十一日  渋沢成一郎等が天野八郎と袂を分かち堀之内村に脱出、同志集結
四月 十五日  渋沢成一郎等が田無に集結、振武軍を立ち上げる
五月 十二日  振武軍田無より箱根ヶ崎に移動
五月 十五日  彰義隊が上野で壊滅、振武軍援軍のため田無へ引き返すも断念
五月 十八日  振武軍飯能村に入り七か寺に分宿
五月 二十二日  振武軍近隣の十一か村に廻文(めぐりぶみ)を出すも最後まで廻らずに戦闘突入
五月 二十三日  振武軍払暁より飯能戦争に挑むが昼までに壊滅四散

(完) 


 「その拾弐(じゅうに)」へ



歌劇<幕臣・渋沢平九郎>TOPへ


【 公 演 】
2020年5月23日(土)
2021年2月6日(土)
深谷市民文化会館 大ホール

ホームページ  
https://www.unist.co.jp/heikuro/

 



HOME PAGEへ