M-168-12

 



そ の 拾弐(じゅうに)

12

加 藤 良 一

2020326日



平九郎 無念の最期
・孤軍奮闘も多勢に無勢…


平九郎 無念の最期

孤軍奮闘も多勢に無勢…
 慶応4年/明治元年(1868)522日夕刻、飯能において振武軍と官軍の斥候が衝突し、ここに飯能戦争の火ぶたが切られた。戦闘開始の報を受け、翌未明、官軍の総攻撃が開始された。
 しかし、わずか半日で振武軍は潰滅し、四方八方へと敗走して行った。なかでも平九郎は、名栗山中を落ちて行くうちにたった一人となってしまった。まことに不運であったといわざるを得ない。かたや渋沢喜作や尾高惇忠らは命からがら逃げのびることができた。

 高麗(こま)博茂編纂の「飯能戦争秘話」(非売品)に平九郎の運命の別れ道となったこのあたりのことが詳しく書き残されている。

 参謀渋沢平九郎は六尺豊かの偉丈夫で而も剣の達人であった。本陣陥落に際し、重傷の身にも屈せず単身囲みを破って逃れた。途中さる民家に立ち寄り、侍の衣装と大刀を預け、農民の着物を借り受けて変装した。ただ小刀だけは万一の場合の用意として風呂敷に包み、肩に背負って歩いた。平九郎は山を()じ、谷を渡り、川を越え、一心に道を急いだ。険阻(けんそ)な山道を跋渉(ばっしょう)した為め、草鞋はすり切れてしまったので裸足で歩いた。そして漸く高麗郡長沢村風影(ふかげ)(現・飯能市大字長沢風影)の義経、弁慶の伝説で有名な顔振(こうぶり)峠(土地の人は「かあぶりとうげ」という)の頂上に辿り着いた。峠には茶屋があって加藤たきという老婆が渋茶の接待をしてくれた。そこで平九郎は六銭の草鞋を一足買い求めて履いたのであった。老婆は「この旅人は飯能戦争の落人に違いない。」と見抜いていたので、
 「もしや貴方様は江戸のお侍様では御座いませんか。若しそうならば近く官軍のお侍様が大勢ここを通るとの事ですから中々油断はなりませんぞ。そのお荷物若し腰の物ならこの(ばばあ)にお預け下さいまし。」と頻りに勧めたが、平九郎はさあらぬ(てい)で、
 「いや、私は江戸の者ではない。秩父三峰の神主の倅だが、戦争のため吾野の通りが物騒故廻り道して行く所だ。この荷物はそんな危ない物ではない。」
と答えた。しかし門前の狼、後門の虎、背腹を皆敵に(やく)された平九郎は気が気でなく、老婆心尽くしの一杯の渋茶も半分残し、草履の代金六銭も支払わず「さらば」と言って立ち上がった。
 老婆は店先に立って指しながら、
 「そこに道を右へ降りると黒山から越生に出て中山道の熊谷に通じますが、越生には官軍様がいて物騒ですから左へ尾根伝いにお出でなさいまし。直ぐ秩父で御座います。くれぐれもお気を付けてお出でなさいまし。」
と言って安全な道を教えた。平九郎は思案した。
 「右へ降りようか。左へ曲がろうか。」
 然し「中山道の熊谷」と聞いて望郷の念に駆られた平九郎は思わず右に向って歩き出した。老婆が、
 「秩父は左ですよ」
 と注意したが耳に入らなかった。坂道を降る途中で坂を登って来る土地の人に出会った。草履の代金を払わなかったことを思い出した平九郎は、この人に「峠の茶屋に草履代を届けて頂きたい。」と言って金六銭を託したのであった。茶屋の老婆加藤たきは落武者から草履の代金をもらう心算(つもり)はなかったから請求もしなかったのであるが、義理堅い落武者の心の琴線に触れ、只管(ひたすら)その無事を祈るのみであった。


 こうして、平九郎は、茶店の老婆の進言を聞き入れ、農民姿に変装したうえ、大刀だけを預けたまでは善かったが、その後目指した山道が運命の別れ道となってしまった。なぜか老婆の進言する秩父は目指さず、あろうことか峠を越え黒山村(現・越生町)へと下って行った。

 老婆の心配は的中した。敗残兵の探索に当たっていた芸州藩神機隊の斥候三人と出くわしてしまったのである。
 平九郎は何食わぬ様子で通り過ぎようとしたが、怪しんだ一人から訊問を受けた。平九郎は予てより決めていた「私は秩父神社の神官です」と偽装を試みたが、そう簡単に見逃されるはずもなく、ますます怪しまれてしまった。
 三人に囲まれ押し問答を繰り返したのち、最早逃げられないと観念した平九郎は、潔く正体を明かし、懐中の小刀を抜きざま小頭と思しき一人に斬りつけた。一刀のもと左の腕が転げ落ちた。小銃を構えて向かって来た別の官兵にさらに斬りつけた。しかし、背後にいたもう一人に右肩を斬りつけられ、血しぶきを上げながらも、前方の官兵に斬りかかったが、その官兵は逃げながらも小銃を撃ってきた。その銃弾が平九郎の太腿を貫通した。平九郎はなおもひるむことなく小刀を振りかざしたので、恐れをなした官兵二人は傷ついた小頭を置き去りにしたまま逃げ去った。


 肩と太腿の二箇所に重傷を負った平九郎は、もうこれ以上動くことは叶わぬ、最早これまで…。傍らの岩ににじり寄って腰を下ろした。あらためて小刀を握り直し最後の力を振り絞って割腹し果てた。

 慶応4年/明治元年(1868)523日、時刻は夕方四時をまわっていた。平九郎は無念のうちに二十二歳の短い生涯をここに閉じた。この壮絶な闘いの一部始終を遠くから見ていた村人は、そのみごとなまでの武者ぶりに度肝を抜かれ、「脱走のお勇士様」「だっそさま」と呼んで語り継いだという。

 この悲惨な戦闘場面を医師の宮崎通泰(みちやす)が描いていた。宮崎は平九郎と闘った官軍負傷兵の治療に当り、負傷の理由を詳しく聞くうちに若い脱走士が勇敢に立ち向かい、最後は自刃したことを知った。それを一枚の絵にし、脱走士の懐中から出てきた和歌二首とともに書き残したと、「幕末武州の青年群像」(岩上進著 1991)に紹介されている。






渋沢平九郎昌忠(まさただ)戦闘図之記
明治元年戊辰五月廿三日、武蔵国比企郡安戸村医師宮崎通泰(みちやす)と云ふ人官軍之召ニ応じ入間郡黒山村ニ至り、軍士三人之創傷を治す、(しこう)して(その)負傷の由を問へしに、徳川脱走士一人装を変し来り、黒山村途上ニ官軍斥候士三人に逢ふ、糺問(きゅうもん)せられ脱すへからさるを知り、(おび)る処の小刀を抜て甲の一人を(はつ)り、振返して乙の一人に(きずつ)け、又転して丙の一人を撃ち、甲は(たお)れ、乙・丙は逃れ走れり、脱走士は路傍の磐石(はんじゃく)(きょ)し、屠腹(とふく)して死せり、(その)勇武歎賞すへしと云ふ、(すなわ)(その)状を図し又(その)懐中せし歌及八字を写し、帰途男衾(おぶすま)郡畠山人丸橋(まるはし)一之君に逢ふ、君之を乞へ得て家に蔵し人に示し話して歎賞す、十有余年の後榛沢郡中瀬(なかせ)村人斎藤喜平君に示す、君これを聞き嘆して(いわく)噫於(ああ)(その)脱走士ハ郷人尾高平九郎なりと、以て惇忠(じゅんちゅう)に告く、惇忠(じゅんちゅう)今玆(こんじ)六月丸橋君ニ邂逅(かいこう)し当時の情況を聞き此図(このず)を熟覩し感慨ニ勝す(たえず)、之を記して返す、平九郎実に惇忠(じゅんちゅう)の次弟にして、渋沢栄一養て((ママ))とせしなり、徳川幕府に仕へ一年にして戊辰の変に遭遇し、彰義隊に入り、閏四月廿八日江戸を去るに臨ミ、紙障に楽人之楽者憂人之憂食人之食者死人之事と書して出づ、(つい)に兆となりしなり

  明治廿三年七月武蔵榛沢郡八基(やつもと)村大字
  下手計人(しもてばかびと)藍香(らんこう)主人尾高惇忠(じゅんちゅう)識于仙怡寓居(しきうせんいぐうきょ)

文中、藍香とは尾高惇忠の雅号、また平九郎を渋沢栄一の弟としているが、これは養子のまちがいである。



 その後、平九郎の首は官軍方によって()ねられ梟首(きょうしゅ)台に晒された。地元の村人はもとよりこの武士の身元など知る由もなく、首と離れた亡骸は全昌寺住職が仮に「真空大道即了居士」と戒名を施し墓地に葬った。かたや晒し首は生越の村を転々としたが、哀れんだ仏心ある村人によって、洗い清められ法恩寺境内に埋葬された。

 町田尚夫氏(奥武蔵研究会)は、「奥武蔵に澁澤平九郎の足跡を探る」に多勢に無勢にも関わらず果敢に戦った平九郎の最期について、次のように書いておられる。

 衆寡(しゅうか)敵せず、頭取・渋沢成一郎(喜作)、副頭取・尾高惇忠(藍香)らは敗走する途中、旧横手村(現・日高市)、旧大野村(現・ときがわ市)などの村びとたちの、身命を賭した徳行に助けられて危難を脱し、官軍の追跡を逃れ落ち延びた。一方、参謀。渋沢平九郎は戦場で離れ、単身顔振峠を越えて黒山に到って官軍と遭遇、勇敢に立ち向かい一旦は退けたが、しょせん逃げられぬと覚悟を決め潔く自決、弱冠22歳で華と散った。


(つづく)


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【 公 演 】
2020年5月23日(土)
2021年2月6日(土)
深谷市民文化会館 大ホール

ホームページ  
https://www.unist.co.jp/heikuro/

 



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