M-168-11

 



そ の 拾壹(じゅういち)

11

加 藤 良 一

2020321



最後の決戦 飯能戦争
官軍一斉攻撃を開始
最後まで廻りきらなかった幻の廻文(めぐりぶみ)

振武軍陥落


最後の決戦 飯能戦争

官軍一斉攻撃を開始
 振武軍
が能仁寺に本陣を構え戦闘準備に入った頃、いっぽうの官軍側では軍監尾江(おえ)四郎左衛門が、鹿児島、大村、佐賀、福岡、広島、鳥取、前橋、忍の8藩を率いて川越城に入り、川越城主松平周防守(すおうのかみ)家臣の精鋭も結集し機を窺っていた。
 (軍監とは、軍隊の監督をする職。いくさめつけ。監軍ともいう。)

 そして、慶応4年/明治元年(1868)5月22、丑の刻(午前2~3時)官軍は満を持して一斉攻撃を開始した。官軍総攻撃の模様を「飯能戦争秘話」(高麗(こま)博茂編纂 横手の三義人顕彰会)では次のように伝えている。

(官軍は)扇町屋、笹井河原、鹿山(かやま)峠の三方面よりラッパを吹き鳴らし、大砲、鉄砲をもって一斉に攻撃を開始した。これに対し振武軍は、渋沢平九郎等剛勇の士を前線に配置して防戦に努めたが、錦の御旗を掲げた三千の官軍勢は疾風枯葉を()くの概を以ってこれを撃破しつつ進軍し、その日の夜半早くも飯能市内中に突入し、翌二十三日丑の刻(午前2時)より智観寺、観音寺その他市内の各寺院に分屯していた振武軍将兵を逐次掃蕩し、引き続き辰の刻(午前8時)には本陣総攻撃を決行したのである。この時官軍は本陣に向かって一斉に大砲を撃ち込んだが、その時の模様は百雷が一時に落ちるようだったという。官軍の総攻撃を受けた振武軍の将兵は決死の覚悟で孤塁を守り奮戦したが、衆寡(しゅうか)敵せず、その日午の刻(正午)本陣の能仁寺は砲火の為め全焼して陥落し、振武軍の将士は或いは討死し、或いは逃亡し、二日間に亘った惨な戦は終りを告げたのである。世にこれを「飯能戦争」と称する。

 
最後まで廻りきらなかった幻の廻文(めぐりぶみ)
 かたや振武軍は、官軍の総攻撃必至とみて、一通の廻文(めぐりぶみ)吾野(あがの)名栗(なぐり)一帯の村々に向けて発した。今でいう回覧板である。



 文中、「我野」は「吾野」を指すと思われる。
廻文を意訳すると次のような内容であった。

大至急 我野谷つ村をはじめに廻すこと
この度当軍が在留することになった
村々の一同へとくと話したいことがある
用の足りる村役人
一人ずつが急ぎ飯能村
見張番所まで出てくること
  但し、用向きの事は別段心配いらない
   この廻状を見次第すぐに出てくること
   この廻状を見た時刻を付け
   最後の村から持参せよ 至急廻すこと


 
この廻文(めぐりぶみ)は、白子村からはじまり、高麗川上流の11か村に当てたものであるが、八つ目の三社村まで署名捺印がなされている。廻文の受け取り時刻をみると、最初の白子村は未申刻(未:午後2-3時、申:4-5時⇒午後3-4時頃)、山崎村が受け取った時には既に子の下刻(子:夜中の12-1時、つまり夜中の1時頃)だった。なんと九か村を廻るのに9時間を要してしまい、梨子本村と小丸峠下へは廻らなかったのである。頼みの廻文が廻りきらないうちに振武軍は陥落し、四方へと敗走を重ねていった。


 5月22日の廻文の回覧状況は振武軍の意に反し、次のようにのんびりしたものであった。とにかく歩いて隣村まで行くのであるから仕方がなかったというしかない。

白子村 未申刻(午後3-4時)拝見仕候
虎秀村 未上刻(午後3時)拝見仕候
平戸村 酉上刻(午後6時)拝見仕候
井上村 酉下刻(午後7時)拝見仕候
南 村 酉下刻(午後7時)拝見仕候
坂石村 戌上刻(午後8時)南村より請取拝見仕早々順達仕候
芳延村 亥上刻(午後10時)坂石町分より請取拝見仕早々順達仕候
三社村 子上刻(午後10時)芳延組より請取拝見仕早速順達仕候
山崎村 子下刻(午前1時)三社より受取拝見仕候
梨子本村
小丸峠下
(小丸峠とは正丸峠のことか)

 けっきょく村名主を集めて何事かを話すこともなく戦は終わってしまった。振武軍は一体何を話したかったのか。
  「
但し、用向きの事は別段心配いらない
とはいえ何らかの重要な頼みごとがあったはず。まさか開戦直前になって武器調達の依頼でもなかろう。では何のためか。敗戦はそれなりに覚悟のうえであったろう。敗走にあたり、退路の道案内とか、手助けを求めたかったのであろうか。



振武軍陥落
 飯能戦争秘話」によれば、振武軍のその後の敗走は次のようであった。

本陣能仁寺陥落の際、振武軍頭取渋沢成一郎と中隊長尾高惇忠(じゅんちゅう)は、血路を開いて官軍の重囲を脱し、羅漢山を越えて武州高麗(こま)郡高麗郷横手村(現在の埼玉県入間郡日高町大字横手)に逃れた。
(中略)「横手の三義人」に危ない所を救われ、衣類、食糧等の給与を受け、その手引きによって東吾野を通過して吾野に落ち、更に秩父を越えて上州に逃れ、後渋沢成市郎榎本武揚に従って函館五稜郭に走り、戦敗れて榎本武揚とともに官軍に降り下獄したが、明治三年大赦に遭い、名を「喜作」と改め、大蔵省に出仕し、その後官を辞して実業界に転じ、渋沢栄一と並び称される程の財界の大立物となったのであった。又尾高惇忠は、明治三年民部省に登用され、富岡製糸場長を兼ね、後官を辞して第一銀行に入り盛岡、秋田、仙台支店長を歴任したのであった。


(つづく)


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【 公 演 】
2020年5月23日(土)
2021年2月6日(土)
深谷市民文化会館 大ホール

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