E-126
明治維新と宮崎
荒川滋さんが語る 戊辰戦争に散った祖先
松下新蔵兼武
 
加 藤 良 一
2021年7月4日




 宮崎市において、ふるさとの歴史を学ぶ活動として、「高木兼寛(かねひろ)と松下新蔵兼武(かねたけ)を顕彰する集い」(令和3(2021)65日)が開かれました。講師のお一人、荒川滋さんは、子孫の一人として松下新蔵について、ご自身で調べたことや見聞きしてきたことを話されました。荒川さんは筆者の昔からの男声合唱仲間です。親しみを込めて荒さんとお呼びしています。

 
荒川家は先祖代々、高木兼寛の出身地である高岡町穆佐(むかさ)に居を構えていました。荒さんはご両親が上京後、昭和14(1939)東京都世田谷区代田で生まれ、戦時中は故郷の母方の松下家へ母子3人で疎開しました。

 高木兼寛は、医学博士で海軍軍医総監、のちに東京慈恵会医科大学の創設者となりました。脚気の撲滅に尽力し、「ビタミンの父」とも呼ばれ、当時日本では馴染みの薄かったカレーを脚気の予防として海軍の食事に取り入れ、いわゆる海軍カレーとして今に残されています。

 かたや松下新蔵は、薩摩藩の穆佐郷士でしたが、慶応4(1868)82日、新政府軍として北越戊辰戦争に赴き、現新潟県三条市を流れる信濃川支流「五十嵐川曲渕(いからしがわまがりふち)の戦い」にて奥羽越列藩同盟軍と激しい戦闘の末、銃撃を受け落命しました。享年22歳でした。奇しくも、同年523日、戊辰戦争の一環であった武蔵野国の飯能戦争(現埼玉県飯能市)において、彰義隊から分派した振武軍の兵士として新政府軍と闘い、壮絶な死を遂げた渋沢平九郎も同じ22歳の若さでした。両者ともに立場こそ違え国を思う心は同じだったことでしょう。


官修墓地・墳墓(新潟県上越市)


墓碑に、司令官の弟西郷吉二郎と並び、荒川滋さんの祖先「松下新藏」の名前が記されている


 筆者が顧問を務めた渋沢平九郎プロジェクトでは、令和3(2021)26日、渋沢栄一、平九郎親子の地元深谷市で<歌劇 幕臣・渋沢平九郎>を上演しました。上演に至る顛末を『コロナ禍乗り越えオペラ上演<歌劇 幕臣・渋沢平九郎>』としてアマゾン・オンデマンド出版より上梓しました。


 穆佐(むかさ)とは珍しい地名です。宮崎県の南部、宮崎市高岡町に国指定史跡の穆佐城跡があります。穆佐城は、南九州を代表する中世の大型山城のひとつです。その歴史は、南北朝期の建武2(1335)に遡ります。その後、城の争奪戦がたびたび繰り返されました。宮崎市文化財調査報告書によれば、文安2(1445)、穆佐城は伊東祐堯(すけたか)によって陥落し、以後130年間、伊東氏の支配となりました。天正5(1577)、伊東氏の豊後落ちにより、穆佐城は島津氏の支配するところとなり、慶長5(1600)には、伊東方の稲津勢が穆佐に攻め入り、城の木戸一重を打ち破るなど、穆佐城は江戸時代の初めまで戦乱の舞台となったといいます。

 
荒さんは、松下新蔵が「五十嵐川曲渕の戦い」で戦死したことについて、平成30(2018)「北越戊辰戦争戦没者所感」と題して、このホームページ(↓)に書き残されています。
   rkato.sakura.ne.jp/essay/e119_hokuetsuboshinsensou_senbotsusya_syokan.html

 今回の講演では、松下新蔵の手がかりを求めて探し歩いた末、松下家の墓をみやざき霊園内に見い出したことを話されました。また、霊園の一角にある松下新蔵兼武の墓碑にも出会いました。

 墓碑には三面にわたって、新蔵が越後で戦死した過程が記されていました。碑文は、荒さんの曽祖父(ひいおじいさん)中村敬助さんが書かれたものとのことです。市の文化財を担当する方に解読してもらい、それを荒さんなりに解釈したものを以下に示します。

 
正面                         背面

 
左側面                      右側面



【墓碑左側面】
 松下新蔵兼武は松下十左衛門兼信の長男。慶応三年三月鹿児島へ赴いて、藩校造士館の文武学寮に入り、番兵二番隊伍長となる。八月に薩摩藩の命令を受けて大阪・浪華へ。一ヶ月余り滞在後、京都へ。天下は乱れ、人心は険悪な世相に。不安な気持ちでの寝食が何日も続く。次の年の正月、将軍徳川慶喜が謀反を起こし、石山城に兵を送り、当時京都にありました皇居近辺を襲う。薩摩藩の兵は伏見鳥羽の戦いで六昼夜にわたって、これを防ぐ。味方の死者よりも敵方の死者の方が多く、味方は鬨(とき)の声を挙げる。

【墓碑背面】
 相手方の大将はイギリスの軍艦に乗り江戸城へ逃げる。官軍は迫りてこれを撃退すること、緊急なり。六月、兼武は命を受け、京都を発ち越後へ。七月十三日長岡城へ。八月二日の対戦は、新発田藩内の曲渕。相手の銃弾が兼武の身体を貫き、髙田城本営病院へ入院するも、重体のため治療することもなく、慶応三年八月十五日、遂に命尽きる。享年二十二歳。

【墓碑右側面】
 薩摩藩公は葬儀費用にと五十両を支給される。戦没の功績を追加する報奨として米八石を賜る。家族にとって三十年間の生活維持を保障。髪の毛を埋め祖先の墳墓のそばにおき、末永く招魂すべきものなり。戦時に潔く身を捧げ、亡くなったとはいえ、その名前は残る。




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