E-24

 


尊厳死と安楽死

 



加 藤 良 一



2002年8月18日

 


 尊厳死とは、現在の医学では不治であると判断されたときに、無意味な延命措置はせず 、苦痛を和らげる鎮痛治療は最大限にやり、数ヶ月以上にわたって植物状態に陥ったときは一切の生命維持措置はとりやめて、人間らしく死期を迎えることである。
尊厳死のことは、 『死後の準備はお早めに』(E-9)にも書いてあるので、あわせてご覧願いたい。)
 ところが、不治の病に罹り、意識がなくなってからでは、自分がどのような治療を望んでいるかを医師や家族に伝えることはできなくなってしまう。そこで、ふだんから家族や周りの人たちに自分が尊厳死を望んでいることを話しておく必要がある。尊厳死の意思表示として、今年5月、私と妻と二人分の 「尊厳死の宣言書」( リビング・ウィルLiving Will )を日本尊厳死協会に登録した。
 意思表示するのに 「かたち」 そのものはどうでもよいことではないか、と思われる向きがあるかもしれないが、ここはやはりきちんとした 「かたち」 で残しておくことの必要性について以下に述べたい。

 不幸は突然やってくるものである。配偶者や子供たちは日ごろから患者の尊厳死に対する意思を聞いていたとしても、それを親類縁者や医師に口頭でうまく説明しきれるだろうか。状況が状況だけに、事情を知らない医師や親類縁者に対し、患者が尊厳死を望んでいたと果たしてうまく説明できるだろうか。気が動顚した家族の訴えに果たして医師が耳を傾けるだろうか。なかにはあからさまに無視する医師もいると聞く。
 医療の根本目的は、患者の命を救い、すこしでも長いあいだ生きてもらうことである。この点は正しい。そのために医師は日夜全力をつくしているのだから。しかしながら、現在では、末期の患者にスパゲッティ状態にチューブを巻きつけ、意識もないのにただ少しでも長く “生きて” いればよいというだけの医療行為に疑問が投げかけられている。
 患者と医師の “立場のちがい” とでもいうか、じつにむずかしい問題だが、それでもあえていえば、本来医療現場において “立場のちがい” があってはいけないのではないか、医師と患者が同じ目の高さで病気に立ち向かわなくてはいけないのではないか。
 患者が死を目の前にしたとき、家族や親類縁者はどう反応するか。生前に患者が意思表明していたとはいえ、十分な治療もせずに殺してしまった、と言われたくないだろうし、また世間体もあろう。そのとき、「患者は以前から尊厳死を望んでいました」 という話しだけではなく、紙に書かれた宣言書があり、さらに第三者の団体がそれを認めているとしたら、患者の尊厳死に対する意思は誰の目にもあきらかとなり、関係者はそれを受け入れざるを得ないにちがいない。

 ここで尊厳死とは何かをいまいちど確認しておきたい。日本では安楽死尊厳死のちがいについてじゅうぶんなコンセンサスができているとは考えにくいことと、混同されているきらいがあると思うからだ。
 安楽死とは、助かる見込みがないのに苦痛にさいなまれる患者の自発的要請にこたえて、医師が医療行為として死に至らしめるものである。医師が致死薬を注射する方法と、患者自身が致死量の薬を飲む方法があるが、いずれも法に抵触する可能性があるという。前者は殺人、後者は自殺幇助ということになる。
 日本尊厳死協会1976年設立当時はまだ尊厳死という言葉もない時代であったため 「安楽死協会」 と名乗っていた。1981年にリスボンで開かれた世界医師会総会で、「患者は尊厳をもって死を迎える権利を有する」 というリスボン宣言が採択され、その後、米国デラウェア州で尊厳死法が制定されるなど、尊厳死という言葉の一般化に合わせて1983年に現在の 「尊厳死協会」 に変えたいきさつがある。
  1980年代以前の医療は“救命と延命”が中心であった。その後、ただ生きていればよいというだけでなく、人間として生きる質、つまり 「生命の質 Quality of life こそがより大切なものと考えられるようになった。人間が人間らしく生きるには精神の健全性が欠かせない。誰しも最後まで人間らしい人格を持っていたいと願うはずである。
 しかし、とくに癌などでは、死期が近づき耐え難い苦痛に襲われ続けると、人はしばしば人格を失ってしまうことがあるという。いかに身体的苦痛が人間にとって過酷なことか証明する話しとして、病気ではないが、拷問を受け続けて発狂したという昔の話しもあるくらいである。看病してくれている家族にまで、人格を失った状態を曝け出して死んでゆくのは、人間としていかにも悲しい。苦痛に耐え抜いたその先に、病気が治るという希望があればまだしも救われるが、回復見込みのない患者の末期が人格を失った状態にあってよいものだろうか。願わくは、最後まで人間らしい人格を保ちながら死を迎えたいものである。
 このように終末医療には、痛みを和らげる 「鎮痛治療」 が重要な課題になってくる。痛みには、身体的痛み、精神的痛み、社会的痛みなどがあるといわれ、それらを総合的に癒す医療行為が望まれている。

 痛みに関する詳しいことは別の機会にゆずるが、尊厳死の前提には、このトータル・ペイン・クリニックが欠かせないものであることだけを強調しておきたい。


 

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