加 藤 良 一
◆学生時代から使い始め、社会人になってからもずっと顕微鏡と付き合ってきました。しかし、恥を忍んでいえば、最後までどうも苦手意識が拭い去れませんでした。それというのも、顕微鏡を使うということは、その操作もさることながら、観察に至るまでのさまざまな技術もけっこう難しいものだからです。試料の作製、たとえばプレパラート作りなどはコツが必要でしたし、それが結果に大きく影響するのです。また、生きた動物細胞を顕微鏡下で観察しながら数をカウントするのも難しいもので、ずいぶん苦労しました。
このあたり現在ではどうなんでしょうか。自動化されてて誰にでも簡単に作ることができるようになっているのでしょうか。
◆先日、上野の国立科学博物館で企画展
「国産顕微鏡100年展~世界一に向けた国産顕微鏡のあゆみ~」
を見学してきました。ひと口に顕微鏡といっても目的に応じて様々なタイプがあることが、いまさらながら展示物からよくわかりました。
企画展では1914(大正3)年に 「エム・カテラ」 という、日本で最初に量産化された光学顕微鏡の販売開始から100周年を記念し、わが国の顕微鏡がこの100年足らずで世界トップレベルになるまでの経緯を、歴史的なものや最新の製品などを研究成果と共に紹介しています。「エム・カテラ」 とはちょっと変わった名前ですが、開発に関わった松本福松(M)、加藤嘉吉(KA)、寺田新太郎(TERA)から命名されたものです。
(展示期間:平成27年3月3日~4月19日)
◆顕微鏡が発明されたのは今から420年余りも昔のことです。創りだしたのは、オランダのレーウェンフックという、いっかいの町の商人でした。レーウェンフックは、1632年生まれ、学者でも研究者でもないのに顕微鏡を自ら作り、動植物の細胞、血液中の血球、原生動物、精液中の精子まで、肉眼では見えないものを見ることに執念を燃やした人でした。奇しくもレーウェンフックと同じ年、同じ町オランダのデルフトで画家のヨハネス・フェルメールが生まれています。レーウェンフックは毛織物商人の息子として、フェルメールは宿屋兼酒場の息子として、4日違いで同じ教会で洗礼を受けていたのです。
じつは、レーウェンフックとフェルメールは、長じて分野はちがっていましたが、かなり密接な関係にありました。詳細は省きますが、フェルメールは、カメラ・オブスクーラを使って作品を描いていたのではないかというのです。カメラ・オブスクーラとは、素描を描くために使われた光学装置のことです。原理は、ピンホールカメラと同じようなもので、箱に小さなピンホールを開けると外の光景が穴と反対側の黒い内壁に像を結ぶというもの。写真撮影用のカメラはこのカメラ・オブスクラに由来しているそうです。
◆ところで、レーウェンフックは細菌の発見者であるにもかかわらず、パスツールやコッホや北里柴三郎ほどには名が知られていません。果たしてそれはなぜなのでしょうか。微生物学ではレーウェンフックについてほんの簡単にしか触れません。科学機器や材料はあくまで道具であって、それを使って何をするかが重要であることには変わりありませんが、これだけ画期的な発明なのにその知名度の低さはどうしたものかと思わざるを得ません。
◆日本にそんな疑問を抱いた一人の研究者がいます。その方は、九州大学医学部細菌学の天児和暢 Kazunobu Amako 教授です。
それによれば、レーウェンフックが無名だった理由として、以下の3点が上げられるといいます。
①レーウェンフックは学者ではなく商人であった
②観察結果を論文として残さず、手紙の形で王立協会に送り続けただけだった
③自作の顕微鏡を公開しなかったため、他者が再現できなかった
レーウェンフックが自身の観察結果をもし関連学会に論文として投稿していたら、まちがいなく大きな評価を得られたことでしょう。学者ではないから論文発表する場もありませんでしたし、理路整然とまとめる能力も不足していたかも知れません。さらに自ら創作した顕微鏡を誰にも見せず、また売ることもしなかったので、それ以上拡がるわけがなかったのです。現代であれば、まず特許を取得し、広く販売するにちがいありません。その当時は、顕微鏡を商売につなげるという発想など浮かばなかったのかもしれません。
◆レーウェンフックの顕微鏡は実に簡単なものです。現在の顕微鏡は、対物レンズと接眼レンズを組み合わせているのが基本ですが、レーウェンフックのはレンズが一個しかありません。ですから、拡大鏡とか高倍率の虫眼鏡と思ったほうがよいでしょう。遺されている彼の顕微鏡を調べたところ、拡大倍率は100倍以上あったようです。そんな顕微鏡でレーウェンフックは、ようやく見えるかどうかの微細な物体をワクワクしながら観察していたのです。
国産顕微鏡の歴史は、はるか昔のレーウェンフックからはじまり、日本人の技術者や科学者が展開させて現在に至っているのです。こんなことを考えながら100年展を楽しみました。
2015年4月5日