武士の魂 平九郎の愛刀 月山(がっさん)貞一(さだかず)



 平九郎がずっと大切にしていた太刀は、月山貞一(がっさんさだかず)の手になる銘刀であった。折れず、曲がらず、よく切れる。実用性のみならず、綾杉肌(あやすぎはだ)といわれる美しい肌模様が貴重なものであった。とはいえ、いざ命懸けの戦で使うとなると、平九郎としては水戸で学んだとき手に入れた勝村徳勝(のりかつ)銘の白刃を使いたかった。なんとなれば、水戸藩では、あくまで実戦で役立つかを重んじ、藩への刀剣納入については特別厳しい基準を設定していたから、実戦向きの太刀が多かったのである。

 個人的なことだが、以前多士済々の人たちのある集まりの中に刀研師(かたなとぎし)という一風変わった職業の方がおられた。名刺の肩書には「日本刀研師 日本刀文化振興協会評議員」とあった。日本刀に関わる方にお会いするのは初めてであった。当然現代においても日本刀は作られているが、ふつうは美術品として扱われるわけで、こういう職業もあるのだと感心したことを思い出す。


平九郎愛用の銘刀 月山貞一
 月山鍛冶(かじ)とは、鎌倉時代初期に奥州出羽国(山形県)月山の麓で栄えた刀工技術集団月山派を指す。大きな特徴は、刀身全体に波のように流れる綾杉肌で、月山肌とも呼ばれる模様があること。月山を拠点とし、その中で幕末に大坂に移住した系統が、現代まで残っており奈良県を拠点として活動している。

 鍛冶は、「かじ」とも「たんや」ともいう。出羽国山形の領主最上義光(もがみよしあき)織田信長への献上品として白鷹、馬などとともに刀工月山が打った槍10本を送ったという。また、月山の麓の慈恩寺には天文24年/弘治元年(1555)に刀工月山俊吉により鍛造された鋳鉄草木文透彫釣燈籠が現存している。



 伝承によれば、月山の霊場に住んだ鬼王丸を元祖とするといわれ、以来月山の麓では刀鍛冶が栄え、多くの名人を輩出した。月山の銘を刻んだ刀剣は実用性の高さと綾杉肌の美しさの両面から全国に広まり、作品は月山物と呼ばれて珍重された。

 松尾芭蕉の「奥野の細道」に

此国の鍛冶、霊水を(えらび)てここに潔斎(けっさい)して剣を(うち)(つい)に月山と銘を切って世に賞せらる

 とあるように月山鍛冶の名は広く知られていた。当時の主な生産地は月山東麗の山形県寒河江(さがえ)谷地(やち)とされ、谷地八幡宮には月山鍛冶顕彰の碑が建立されている。
 日本刀の(きた)え肌は
、無地、板目、杢目(もくめ)柾目(まさめ)、綾杉の5種類に分けられる。鍛え肌は各時代、各流派によってさまざまで、刀剣の鑑定上、その系統を見分けるための見どころとなっているという。綾杉肌は、柾目が波状によじれている肌、または杢目肌と柾目肌を交えて連続的に波打つ独特のもの。
 綾杉肌
は他のどれにも属さない特種な肌模様であり、月山刀工の多くがこれを現したが、陸奥国の刀工の舞草(もぐさ)宝寿にもこれがあり、北陸では越後の桃川、あるいは九州薩摩の波平(なみのひら)にも見られる。このように広く伝播したのは山伏などによる伝達や作刀技術の交流が考えられるという。

 古刀期の月山刀工は南北朝から室町末期まで出羽三山修験の発展と共に栄えたが、江戸時代に入り三山が武力を持たぬ純粋な宗教寺院となるにつれ衰退し、その後、月山貞吉天保4年(1833)頃、現在の山形県河北町(かほくちょう)から江戸を経て大阪槍屋町に移り、先祖伝来の綾杉鍛えを再興し、明治から現在に至る大阪月山派を樹立した。


実戦で威力を放つ銘刀 勝村徳勝
 飯能での決戦に備え平九郎は、できることならば徳勝の白刃を使いたかった。しかしながら、急きょ江戸を脱出したので徳勝は郷里に置いたままであった。この刀が何故実戦向きなのか。そこには水戸藩への刀剣類の納入基準の高さ、厳しさがあった。



 刀の強靭さや実用性を試す方法には、信州松代藩の荒試しと、水戸藩の荒試しがあるという。「棒試し」「角試し」「水試し」などがあり、因みに「水試し」とは、「水圧(みずへし)」とも呼ばれ、胸まで水に浸かりながら、刀の平地面を水面に力の限り叩きつける方法。さらには石垣の隙間などに刀を指し込み、その上に人が乗って強度を確認した。水戸藩では様々な強度試験の経験を元に、より強靭な刀を造り出す鍛法は柾目鍛えだとなったようである。

 勝村徳勝は、文化6年(1809)に水戸藩士の子として生まれた。鍛刀の技術をはじめ関口徳宗に師事し、初銘を「徳一」と切り、後に水戸藩工に推挙されて、安政4年(1857)に江戸小石川(現在の後楽園)にある水戸藩邸に移った。江戸出府後は、石堂運寿是一(うんじゅこれかず)や細川正義の指導を受け、鍛刀の技を磨いた。運寿是一は、山形県米沢の刀工、長運斎加藤綱俊の甥で、江戸に出て、石堂是一の七代目を継ぎ、幕末に活躍した。

 





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