平九郎素描



平九郎の生い立ち
村で人気のイケメン平九郎
少年平九郎が見た貧富の矛盾
見立て養子
平九郎、身の処し方に迷う

平九郎の生い立ち
 
のちに渋沢姓を名乗ることとなる平九郎は、弘化4年(1847)11月、武蔵国榛沢(はんざ)下手計(しもてばか)村(現・埼玉県深谷市)の尾高家に生まれた。思わぬことから隣り村の渋沢栄一(天保11:1840昭和6:1931)養子となったことにより、波乱万丈の短い人生を過ごすこととなってしまった。
 渋沢家は農業以外にも染料となる藍玉(あいだま)の製造販売や養蚕も手掛けて財を成した地方の豪農であった。栄一は、そんな恵まれた環境の中で剣術や学問も修めて育ったため、一介の農民とはいえず幅広い才覚に長けた人物となっていた。

村で人気のイケメン平九郎
 三男平九郎の大きな眼や丸みを帯びた頬は母親ゆずりで背丈が高かったのは父親譲りだった。下に妹がいるものの男子の末っ子として、年長者の圧力をつねに受け批判、抵抗の精神が形成されていった。田舎の小さな村では、この紅顔の美少年はひときわ目立つ存在となっていた。
 事実かどうかはさておき次のような逸話が残されている。尾高家は農業とともに商店を営んでいたから、平九郎が店番をする日には女性客が増え、売り上げが倍増したという。また、当時の手計村では男子外出禁止の日があり、そんな日には、「平九郎さん今日はきっとお家に居なさるよ!」と、村の女の子たちは、家の中を覗こうと集まってきた。さらに剣道の試合があれば、イケメンの風貌と長身の偉丈夫に魅せられた女性応援団の黄色い声援が飛び交ったという。
 そんな平九郎ではあったが、尾高家においてはあくまで一家の持ち駒的存在だった。このあたりの事情は『彰義隊落華─渋沢平九郎の青春─』(渋沢華子著)に詳しく書かれている。

◇少年平九郎が見た貧富の矛盾
 平九郎には、虐げられる農民の悲しさ悔しさに対する複雑な思いが胸の内に芽生えていた。それを象徴するような、姉ちよ栄一に嫁いだときのエピソードがある。

 安政5(1858)暮れ、中の家(なかんち)栄一ちよが嫁ぐことになった。栄一十九歳、ちよ十八歳のときだった。この頃栄一は、内心では憂国の志に燃え、国事に一身を捧げたい思いに溢れていた。いっぽう父市郎右衛門は、栄一に嫁でも貰えばすこしは落ち着いて農業に専念し、渋沢家の跡を継いでくれるのではないかとお膳立てをしたのである。
 婚礼は華やかに執り行われたが、もっとも気の合った姉ちよの嫁入りにまだ十二歳の平九郎は感傷的にならざるをえなかった。晴着を着飾った村びとたちが、沿道に起ち並び花嫁を見送ってゆく。
 その時、人目に付かない木立の陰に隠れるようにしている身なりの貧しい親子が平九郎の眼にとまった。祝い事の場に出ることもできない貧農が、それでも名主様の花嫁を一目でもと見に来たにちがいない。この彼岸の大きな貧富の差はいったいなんなのであろうか。多感な少年平九郎の胸に重くのしかかった。


 華やかな婚礼の儀は一週間にもおよび、尾高家にようやく日常が戻ったある日、父の勝五郎が心臓を患って急死してしまった。祝儀につづく不祝儀に家族は大わらわとなった。台所事情は相変らず火の車だったにも係わらず、近所の手前引き続き借金しての大盤振る舞いとなった。平九郎はそれを横目で見ながら、なんと馬鹿馬鹿しい見栄を張るものだと悲しくなった。あの木陰で覗いていた貧農の親子の姿を思うにつけ、逃げ出したくなる思いだった。

 血洗島の暮れは、寒風が吹きすさぶのが常だ。平九郎は吹き付ける土砂まじりの風に、眼を閉じて立ち尽くしていた。父の死に顔、姉の綺麗な花嫁姿、それを見送る貧しい親子が、複雑に絡んで脳裏を駆け巡った。

見立て養子
 ちよは安政5年(1858)に栄一と結婚した。慶応3年(1867)1月、その栄一が突然フランスへ行くことになり、栄一からちよ宛てに届いた手紙にはつぎのように認められていた。
 見立養子無之而ハ不相成候ニ付、平九郎事養子之ツモリニイタシ置候間左ヨウ御承知可被成候

 幕府の取り決めによって、洋行する場合には見立て養子が許されていたのだ。ちよは、あまりの青天の霹靂に呆然としたが、「そうだ、平九郎が士分になれるのだ」と気を取り直した。
 平九郎が帰宅すると、その後を追うように渋沢家の下男が跳んできた。「た、たいへんでごぜえますだ。若だんなさまがイテキの国に行きなさるそうだで。すぐさま中の家(なかんち)に平九さまとおいで下されとっ」
 応対した新五郎平九郎と顔を見合せ、「へえ…。夷狄(いてき)の国に栄さんが? どこの国に行くのだろう…」
 平九郎は他人事のように聞いていたが、その夜、あれこれ考えるうちにもはや逃げられない一大事と悟り、諦めの境地に陥った。当事者ではあるものの三男である平九郎に発言など許されなかった。養子候補としてそこに黙って座しているしかなかった。
 翌日、中の家に出向いた平九郎は、そっけない態度に終始していた。見かねた中の家の家長市郎右衛門に「おう、平九、お前の一身に関わることになるかも知れんに、冷やかに振る舞うものでないぞ」と言われてしまった。しかし、逃げるように去って行く平九郎の後ろ姿に、市郎右衛門は、平九郎は士分になるのを望んでいないと読み取った。

 平九郎がいよいよ栄一の見立て養子になることが本決まりになると、姉ちよは、平九郎が養子になるということは弟が自分の息子になること、栄一の留守居役として江戸詰めになること、江戸にはお武家様の美しい娘ごがたくさんいること、などなどを晴れがましそうに話した。
 平九郎は茶をすすりながらただ不愛想に黙り込むばかりだった。


平九郎、身の処し方に迷う
 尾高平九郎渋沢栄一の見立て養子となり渋沢姓を名乗って江戸に詰めるようになったのは、大政奉還間近の慶応3(1867)であった。その翌慶応4年、時代は明治へと変わった。4月、徳川慶喜は江戸城を無血開城、遂に居城を新政府軍に明け渡すこととなった。慶喜はその後、上野寛永寺に一時謹慎蟄居していたが、いよいよ情勢が怪しくなると水戸へと退却せざるをえなくなった。

 そんな騒然たる世情のなか、平九郎は文武修行に身が入らない日々を送っていた。いわゆる遊学の身であるが、幕臣としてこの事態に如何に処すべきか大いに悩んでいた。義父・渋沢栄一に行く末を相談したいところだが、栄一はパリ万博使節団として若干14歳の徳川昭武に従い渡仏中であった。

 慶応4(1868)38日、平九郎は、遠い空の下フランスにいる渋沢栄一宛てに思いを込めた一通の書簡を送った。そこには、戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が負け、新政府軍が江戸に迫ってきた、幕臣として痛心の至り、徳川家の大危急である、一刻も早い帰国をとの思いが綴られていた。手紙を認めているあいだも、万一に備えつねに左手は大刀の鯉口(こいぐち)(刀の鞘の口)を握りながら書いたともいわれている。それほど緊迫した状況だった。しかし、異国フランスは如何にも遠すぎる。平九郎の声は届かない。そして、目の前には火の手が迫っていた。

  




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