はじめに
令和2年5月23日、渋沢平九郎の命日に合わせ、深谷市民文化会館大ホール(埼玉県深谷市)で歌劇<幕臣・渋沢平九郎>を上演することになった。
この歌劇は3幕8場からなり、新進の作曲家・西下航平さんが作曲を手掛けている。脚本は声楽家で詩人でもある酒井
清さん、演出は指揮者の磯野隆一さん、オーケストラはぴとれ座、そして公募による「深谷で渋沢平九郎を歌う会」が合唱を歌う。この公募合唱団はそもそも「○○を歌う会」として埼玉県合唱祭などに出演するために不定期に活動している有志の集まりで、今回は気合を入れて歌劇に取り組むことになったものである。
ところで、主人公の渋沢平九郎については、令和6年度(2024)に発行予定の新一万円札の顔に選ばれた渋沢栄一の養子だということは聞いたことがあるが、それ以上のことは知らなかった。 平九郎は若くして自刃したので、残された記録や写真などが極めて少ない。上の肖像はほとんど唯一に近い写真ではないだろうか。 折角オペラでその生涯を扱うのだから、せめて平九郎がどのようにして短い生涯を閉じることになったのか、垣間見るだけでもと思いいくつかの書籍を紐解いてみた。
物語の時代背景
歌劇の舞台は、江戸から明治へと移り変わる激動の幕末時代である。徹底した士農工商の身分制度のもと、頂点をなす武士階級が農民の困窮には目もくれず一方的に年貢や御用金を取り立てていた。疲弊し追い込まれた農民や庶民のあいだには、生きるために蜂起するものたちが現れていた。
長期にわたった徳川幕藩体制にも綻びが見え始めた江戸後期、欧米諸国では蒸気船の発明により航海術が発達し、マルコポーロの記した黄金の国ジパングを求めて東洋への進出が盛んに行われた。その手は鎖国する我が国へも向かい、フランス、イギリスなど列強が次々と押し寄せてきた。
嘉永永6年(1853)、アメリカの黒船四隻が東京湾の浦賀沖に来航、日本の開国そして通商条約の締結を迫った。このときの、我が国の狼狽ぶりはつぎのような狂歌によく表現されている。
太平のねむりをさます正喜撰 たった四はいで夜もねられず
「正喜撰」は高級名茶の名前で、これを四隻の「蒸気船」にかけ、このお茶をたったの四杯飲んだだけで興奮してよく眠れないとかけた風刺である。このときやってきたアメリカの旗艦サスクエハナは黒塗りの鉄張りで3千5百トン、大砲が50門もあった。刀や鉄砲ていどではどうにも歯が立たない。
徳川幕府にとってこの難題は手に余るもので、とうてい追い払うことができなかった。翌年には勅許(天皇の許可)を得ずにアメリカと和親条約を結ぶに至った。そうなると、外国の脅威から日本を守ろうと排外思想である「攘夷論」が沸き起こり、君主を戴く「尊王論」と相まって「尊王攘夷運動」として一気に日本中に広まっていった。まさに天地がひっくり返るような動乱の時代であった。
大政奉還
江戸幕府第15代征夷大将軍徳川慶喜(天保8年:1837--大正2年:1913)は、江戸幕府最後の将軍且つ日本史上最後の征夷大将軍となっていた。また、在任中に江戸入城しなかった唯一の将軍であり、最も長寿の将軍でもあった。
その慶喜が、慶応4年(1867)10月、政権を朝廷に還した。いわゆる「大政奉還」である。これにより江戸幕府260年の長きにわたる時代は終わりを告げた。しかし、倒幕派は、さらに幕府が再興するのをきらい、政治を古来の天皇中心の政治に戻そうと、王政復古の大号令を発布した。
いっぽうで、日本は開国によって生糸などの輸出が増えた結果、国内の在庫が品薄となり、つれて諸物価が上昇、庶民の暮らしは一層困窮を極めていった。ついにはもっとも肝心の米の価格が高騰、追い詰められた庶民は米価の引き下げを求めて「世直し一揆」が全国で勃発した。江戸時代に起きた百姓一揆や打ち壊しは3千件にものぼるといわれている。
代官にたてつく青年渋沢栄一 封建制度への反発
安政3年(1856)、栄一17歳のとき、血洗島村から6里ほどの武蔵国岡部(現・埼玉県岡部町)にある陣屋の代官から渋沢宗助と渋沢市郎右衛門宛に呼出状が届いた。いつの世も代官といえば虎の威を借る輩と相場は決まっている。その治世は極めて横暴であった。当然自らは何も生まない階級で消費するいっぽうである。何かと理由を付けては農民などから御用金を取り立てる。
たまたまその日は、栄一の父市郎右衛門が風邪気味であったため、父の名代として若い栄一が宗助とともに出頭した。その時のやりとりを山口平八著「渋沢栄一」より引用するとつぎのようである。
「今日召状を遣わしたのは、余の儀でもない。この度姫君お輿入れの御内儀があるによって、その御入用として名主または物持ちから、それぞれ分に応じて御用金を上納するように申付ける為じゃ。就いては、御用金の額じゃが宗助には千両、市郎右衛門には五百両申付ける。有難く御受けして今日にも持参するように致せ。」
宗助は型のごとくすぐさま承知したが、栄一は我慢ならず、
「御用の趣きしかと承りました。早速帰りまして父に申伝えます。」
これを聞いた代官烈火のごとく怒り、
「その方は市郎右衛門の名代として出頭したのではないか。それ位のことが即座に挨拶出来んで名代と申せるか。それを御請けせぬとは何事だ。17歳にもなれば最早夜遊び位はやっているのに相違ない。五百両や七百両の金を一存で御請けできないとは何たることだ。これ程お上を恐れぬふらちな振舞はない。その分にはすておかんぞ」
とすごんだ。
陣屋から帰って来た栄一を待っていた市郎右衛門は、早速御用金取り立ての話しを聞いた。市郎右衛門は、泣く児と地頭には勝てないとすぐに引き受け、翌日には御用金を差し出しことなきを得たが、治まらないのは栄一であった。
「百姓をやめる!」
この御用金問題で栄一には、封建制度に対する疑惑と不満が一気に頭をもたげると同時に、人間にとってもっとも尊重さるべき自由と平等が虐げられていることに対して強烈な反抗心が生まれた。栄一が武士となり、攘夷思想(※)に燃え、さらに明治維新後には偉大なヒューマニストとして各界の指導者になりえた動機はまさにこの一件にあったといえる。
※:西欧諸外国の日本進出に伴い、夷人を夷狄視し攘う、つまり武力に訴えてでも外国人を排撃しようという考え。夷は東方の蛮人、狄は北方の未開人の意。
攘夷思想の高まり
嘉永6年(1853)6月の黒船来航以来、外国の脅威に対する不安が日本中に拡がっていた。はじめは主に江戸幕府が中心となって対応していたが、文久2年(1862)頃よりいよいよ京都へと舞台を移し、朝廷が動き出す気配が強まっていった。
天皇を尊び外敵を斥けようという尊王攘夷(尊攘)派の水戸藩士たちは、安政7年/万延元年(1860)の桜田門外の変、続く文久2年(1862)坂下門外の変と暗躍を続け世間を騒がせていた。世の激しい動きのなか、ひとえに攘夷思想に駆られていた武士たちが尊王攘夷へと、さらには有効な手立てを示さない幕府に業を煮やし尊王討幕へと姿勢を変えていったのも仕方のないことだった。
開国によって貿易が盛んになり、外国からさまざまな品々が輸入されるいっぽうで、国内からは生糸や茶などが大量に輸出された。もとより国内の生産力はさして大きくないため、たちどころに供給不足となり、高値が付いていった。その事態に呼応して諸物価が高騰し庶民生活は苦しさを増していた。当然武士たちも夷狄憎しと排外思想へと傾いていったが、その多くは下級武士が占めていた。
国内には行き場のない不満や不安が鬱積しており、いつそれが爆発するかという緊迫した状況のなか、渋沢栄一(青淵)、尾高新五郎(惇忠)、渋沢成一郎(喜作)の三名が中心となって途方もない企てを練っていた。
神 託
上の三名の者たちの憂国の情は益々募り、尊王攘夷から討幕へと突き進んでいった。文久3年(1863)11月、尾高惇忠は、以下のような檄文を発した。
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一、近日高天ヶ原より神兵天降り、皇天子十年来憂慮し給ふ横浜函館長崎三ヶ所に住居致ス外夷の畜生共を不残踏殺し、天下追々の彼の欺に落入、石瓦同様の泥銀にて日用衣食の物を買とられ、自然困窮の至りにて畜生の手下に相成る可く、苦難を御救い成され候間、神国の大恩、相弁じ異人は全く狐狸同様と心得、征伐の御供致す可きもの也
一、此度の催促に聊かにても故障致し候者は、即ち異賊の味方致し候筋に候間、無用切捨て申し候事
一、此度供致し候者は、天地再興の大事を助成仕り候義に候得ば、永々神兵組と称し、面々其の村里に附いて恩賞仰せ付けられ、天朝御直の臣下と相成り、万世の後迄も姓名輝き候間、抜群の働き心掛け可く候事
一、是迄異人と交易和親致し候者は、異人同様神罰蒙る可き儀に候得ば、早速改心致し軍前に拝復し、身命を抛ち御下知相待ち候ハバい御寛大の神慈、赦免これ有る可く候事
天地再興文久三年発亥冬十一月吉辰
神使等 印 謹布告
右の文言早速書き写し寄せ場村々へ漏れ無く触達申す可く候、もしとりすて候者にこれ有り候ハバ立ち処に神罰これ有る可く候、以上
当所年寄り共へ
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高崎城乗っ取り計画
腐敗した徳川幕府の滅亡はほぼまちがいない。農民であっても一個の国民であり、日本が滅亡するのを座して見ているわけにはいかない。攘夷を断行するには先ず軍備を整えねばならない。そのためには手近で調達するほかあるまい。白羽の矢が立ったのが血洗島村からほど近い高崎城であった。高崎城は上野国群馬郡(現・群馬県高崎市高松町)にあり高崎藩の藩庁であった。烏川に沿って築城された平城、周囲は土塁で囲まれているだけだった。攻め落とすのはさほど難しいとも思えなかった。
乗っ取り決行の日は文久3年(1863)11月12日と決まった。その日は冬至であった。高崎城を乗っ取り、軍備を整えたならただちに横浜へ進撃し、横浜の洋館を破壊、外人と見るや皆殺しにするという大胆な作戦である。
武器の調達は栄一の役割だった。旅商人を装った栄一は父から藍の買い入れをするという名目で受け取った三百両を懐に神田の武具屋から買い集めてきた。本当に欲しかったのは鉄砲だが、それは幕府の嫌疑を受ける危険があるので断念、その代わりに刀や槍その他を大量に買い込んだ。そうして冬至までまだ間がある10月半ばまでにはほぼ準備が整った。
尾高長七郎の涙
10月25日夜、尾高長七郎が京都から舞い戻って来た。乗っ取り計画を企てる血気盛んな平均年齢25歳にも満たない同志たちが待ち望んでいた人物である。長七郎は惇忠の弟、平九郎の兄にあたる。長七郎は京都滞在中、政治の大きな変動を目の当たりにし、一個人や一集団で体制を変えることの困難さを実感していた。そこで、武力で強引に歴史を変えようとすることの無謀さを諄々と話し、自分はこのような計画に参加しない、乗っ取り計画は止めるよう説得を始めた。
一緒に行動してくれるとばかり確信していた同志たちは、長七郎が乗っ取り計画は暴挙だと主張したから顔色を変え一斉に色めき立った。
「なにを、暴挙だと!」
「そのとおり、この計画はどうみても暴挙だ」
「長七郎、この期に及んで命が惜しくなったのか、卑怯者めがっ」
「そんなことはでない。諸君らは百姓一揆まがいの暴動を起こしていとも簡単に殺されるだけだ。」
気短な者は早くも刀に手を掛けていきり立った。不穏な空気が場を占めたそのとき、最年長者の惇忠がそれを遮って口を開いた。
「まずは落ち着いて長七郎の話しをよく訊こうではないか。拙者が訊くから皆は見守っておれ」
長七郎は京都で見聞きした情勢を丁寧に説明し、無謀な行動で悲惨な結果に終わった例などを話したが、居合わせた者はそう簡単には納得しなかった。討論は夜を徹して行われ、次の日も延々と続けられた。
最後に栄一から、長七郎の変身に対する厳しい言葉が投げつけられた。それを受けた長七郎は、皆の前で涙ながらに計画阻止の想いを述べた。
「やむを得ない。これほど言っても分からないとは残念だ。だが、どうしてもこの計画はやらせない。命を賭してでも止めるっ」
気丈な長七郎が人の前で初めて流した涙だった。ここに至って居合わせた一同黙ってしまった。そこへ平九郎が兄長七郎に同意する旨の発言をした。そうこうするうちに同志たちも次第に長七郎の説得を受け入れることとなり、ついに計画は中止と決まった。
ええじゃないか
渋沢平九郎の江戸詰めと時を同じくして、近畿、四国、東海地方などの各地で「天から御札が降ってくる、これはよいことの前触れ」だ、「ええじゃないか ええじゃないか」と歌いながら乱舞して練り歩く民衆運動が流行った。

「ええじゃないか」騒動に興じる人びと(Wikipediaより)
これは、民衆運動というよりは一種の騒動に近いものだろう。なぜこのような乱痴気騒ぎが流行ったのだろうか。その背景には、士農工商による身分制度の弊害、その結果生まれた格差社会に対する民衆の鬱積した不満があったのではないかといわれる一方、囃子言葉とともに「世直し」を訴えることもあり、こうなるとまさに民衆運動ではないかとの見方もある。これに対し、さらに穿った見方として、討幕派が国内の混乱を企てた陽動作戦ではないかとの噂もあるという。
擾乱の京都 新選組の暗躍
安政5年(1858)、江戸幕府が欧米列強と締結してしまった不平等条約により、三百諸藩は鎖国状態のまま五カ所の港を開港するという屈服政策を攘夷派の志士たちが黙って見過ごすわけがなかった。一歩間違えば植民地化する危機に、有効な対策もとれずにいた孝明天皇に欠けていたのは情報の不足だった。なすすべがないまま、異母妹の和宮親子内親王を十四代将軍徳川家茂に降嫁させる政略結婚に及び、政局は混乱の極致に達していた。
降嫁とは、日本では皇女が皇族以外の男性に嫁ぐことを指す。
政権は本来天皇(朝廷)のものである。それが将軍に与えられて初めて幕府としての勢威が示せるし、幕府を尊ぶことはそのまま天皇を尊ぶことにも通じるものである。ところが、徳川幕府はその歴史のなかで必ずしも天皇家を重んじない政策も執るようになったため、幕府と天皇との間に次第に亀裂が入っていった。そこで、悪化した両者の関係修復に使われたのが即ち政略結婚である。
文久三年八月十八日の政変
公武合体派が、それまで優勢であった尊攘派を京都から追放、実権を掌握した事件。長州勢中心の尊攘派は孝明天皇の大和行幸を機に天皇を擁して討幕軍を起こす計画を立てていたが、これを知った薩摩藩島津久光らは会津藩および久邇宮朝彦親王ら朝廷内の公武合体派と結び、突如御所を軍勢で囲んで行幸を中止させ尊攘派公卿志士らを追放した政変。
(堺町御門の変、文久の政変ともいう)
公=公家すなわち京都の朝廷
武=武家である江戸幕府
朝廷と幕府の合体は、本質的には古来より朝廷が日本統合の権威的象徴であり、権力を掌握した幕府がその統治権を正統化して支配体制を強化する目的で朝廷の権威を制御しつつも利用しようとしたことにはじまる。江戸幕府は、それゆえ他の大名が朝廷に直接関係することを嫌い、朝廷が反幕勢力の拠点とならないようもろもろの制度を設け、表面的には朝廷を尊崇するように見せかけていた。幕府は形式的には朝廷から与えられた形で宣下(天皇の命令を伝える公文書を公布すること)を行っていた。
池田屋事件 元治元年(1864)6月5日
京都三条木屋町(三条小橋)の旅館池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件。
(池田屋事変、池田屋騒動ともいう)
明保野亭事件 元治元年(1864)6月10日
江戸幕府より池田屋事件の残党捜索を命じられた新選組が、京都東山の料亭明保野亭に潜伏していた長州系浪士の探索活動中に偶発した土佐藩士傷害・切腹と、それに伴う会津藩士の切腹事件。
明保野亭は料亭と旅宿を兼ねており、倒幕の志士たちの密議の場として利用されていた。また、土佐の坂本龍馬の常宿の一つといわれている。
禁門の変 元治元年(1864)7月19日
京都で起きた武力衝突事件。八月十八日の政変により京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵、京都市中において市街戦を繰り広げた。
(蛤御門の変、元治の変ともいう)
ぜんざい屋事件 慶応元年(1864)1月8日
土佐勤王党の残党四人が大坂南瓦町のぜんざい屋に潜伏し、店主石蔵屋政右衛門らと大坂城乗っ取り計画を企てていた(らしい)が、それを察知した新選組が襲撃した事件。
三条制札事件 慶応2年(1865)9月12日
三条大橋西詰北の制札を引き抜こうとした土佐藩士を新選組が襲撃・捕縛した事件。
制札とは、高札のひとつで特定の相手や事柄を対象として制定された法令を記した掲示。高札は、古代から明治時代初期にかけて行われた法令を板面に記して往来などに掲示したもの。
油小路事件 慶応3年(1866)3月10日
新選組を離脱した伊東甲子太郎が、新選組局長近藤勇を暗殺しようと企んでいたことが新選組に漏れ、殺害された事件。新選組最後の内部抗争にあたる。
天満屋事件 慶応3年(1866)12月7日
海援隊士・陸援隊士らが京都油小路の旅籠天満屋を襲撃、紀州藩士三浦安を襲い、新選組と戦った事件。
勤皇:天皇のために働くこと。尊王より積極的な行動を伴う。
尊王:天皇を敬うこと。倒幕派、佐幕派いずれにも共通する考え。
佐幕:幕府を佐ける。つまり幕府支持の立場。
倒幕:幕府を倒すこと。
討幕:幕府を攻撃すること。必ずしも幕府が倒れるかどうかは問わない。
攘夷:夷敵を攘う。野蛮な外国人を追い払うという意味。
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