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おばあちゃんの一人旅、パリはごきげん♪.









 

 藤 良 

201799

 



 うつみよしこ
さんは、70歳のときに思い立ってパリで1か月間一人暮らしをしました。もう12年も前のことです。
 パリでのさまざまな体験をエッセイ集『パリはごきげん♪.』としてまとめあげました。女性ならではの視点でパリのすみずみを観察し、飾らない軽やかな筆致で書かれていて読みやすいものです。

 パリで彼女が拠点としたのは、知人のつてで借りた古い建物の最上階にあたる6階の部屋、日本でいえば7階にあたります。でも、エレベーターはありませんでした。必ずしも快適とはいえないものですが、それでも待ちに待った「一人の空間」でした。窓から身を乗り出せば、眼下には幼稚園、タバコ屋、サンドイッチ屋、それからパリには欠かせないカフェがいくつも並んでいるのが見えます。いろんな人種のパリっ子が行き交っていました。


◆魔女のスカート、パリの光と影
 久しぶりに手にした自由な「一人の時間」です。よしこさんは日本から持参した全5巻のヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』を読破しました。パリに因んだ小説というところでしょうか。
 何者にも邪魔されず一人静かに読書に耽る、おそらく仏文を学んでいた若かりし学生時代に戻ったような気分を味わっていたにちがいありません。

 レミゼの主人公ジャン・バルジャンが官憲の追求から逃れて潜り込んだのが、パリの地下牢とも呼ばれる下水道でした。ジャンは糞尿塵芥が鼻を突く暗闇のトンネルを必死で這いずり回り逃走します。苦難の果てにようやくセーヌ河の下流イエナ橋から外へ出ることに成功したのです。

 よしこさんは、アロマ橋のたもとに建てられたパリ下水道博物館を訪れました。総距離22万メートルにも及ぶこの巨大な下水道は1370年から整備が始まり、今でも発展し続けているのです。この下水道は彼女にとってまさにパリの暗部として強烈な印象を残しました。

 パリをひと言で表現すると「魔女のスカート」だとよしこさんはいいます。魔女のスカート。これは一体どこからきたのでしょうか。
 彼女がいうところによれば、「ひらひらと色彩やかなフレアスカートに眩惑されて近づいてみると、その奥にひそむ深い暗部」がパリにはあると感じたのです。あたかも魔女の誘惑におびき寄せられたものの、行ってみるとそこには目を塞ぎたくなるような恐ろしく忌まわしい世界が口を開いていた、この相反する両面がパリの真相なのだというのです。

 「美しい並木、すばらしい建造物、センス溢れる街角、シンプルなモードに身を包んだパリの人々の魅力、ミュゼアムに溢れる絵画や彫刻の銘品の数々。レベルの高い音楽に演劇」
 これが、世界に誇る光り輝くパリの一面です。

 かたや、
 「スカートからチラと見える暗いもの。シテ島から始まって、セーヌ河をはさんで成長を続けたパリの歴史は、侵入と略奪、征服と虐殺、政治と宗教が人民と貴族と絡み合い、現在のパリが出現するまでに、どれだけのおびただしい血が流されたことか」と、感じさせるたくさんの影の部分、そこには異臭が満ち、蓋をされ人々の目から隔離された下水道の存在も含まれていたことでしょう。

 「たった1ケ月ぐらいの滞在でありながら、パリがわたしに強く訴えかけたものは、グルメやファッションなどではなく、そういったつらい過去の上にある己れ、そして現在は実に人口の三分の一を移民で占められた己れのスタンスを守るために、必死で試行錯誤しているかのようなパリの姿だ」


◆ミラボウ橋
 7時。ようやく訪れることが叶ったミラボウ橋、その真ん中で欄干にもたれて佇み、よしこさんはアポリネールの詩によるシャンソン「ミラボウ橋」を口ずさみました。


   
Le pont Mirabeau
Sous le pont Mirabeau coule la Seine
Et nos amours
Faut-il qu'il m'en souvienne
La joie venait toujours apres la peine
 ミラボウ橋の下、セーヌは流れる
 そして私たちの愛も流れ去る
 辛い思いの後にはいつも愛の喜びが訪れたことなどを
 思い出して何になる

Vienne la nuit sonne l'heure
Les jours s'en vont je demeure
 鐘が時を告げ、夜が訪れても
 日々は過ぎ去り、私はひとり残される
  ………
  ………



 よしこさんの脳裏には、青春時代のあるシーンがまざまざと蘇っていました。浅草言問橋の欄干から母親と一緒に眺めた隅田川、その下をさざ波を立ててダルマ船が行きます。母親は、ふるさと新潟で船大工の棟梁だった祖父が造ったダルマ船を思い出し、感慨に耽っていました。そして十数年後、よしこさんは信濃川に架かる萬代橋で母親のルーツに思いを馳せたのです。
 二重写しになった風景、これは紛れもなく母親との家庭内のいざこざ、裏切られてトラウマとなった過去のことなど。なぜか「ミラボウ橋」を唄うとこのトラウマが浮かんでしかたなかったのです。

 彼女はつぶやきます。
 「でも、ごらん。この悠々としたセーヌの流れを」
 「もう、好い加減にいいんじゃない?」

 「日がオートイユの森の陰に廻り、セーヌは暗く、もっと音無く流れていく。何という優しさ。時は流れ去って行くことを、セーヌが教えてくれている。」
 「もう遠い話なのよ。」


◆君の魂はいつも若い!
 よしこさんは、パリの一人旅から10年後、記念すべき旅行記をまとめ上げることができました。思えば、パリへ気持ちよく送り出してくれたご主人は、残念ながらこのエッセイが完成する前の年に亡くなられてしまいました。よしこさん以上にパリを愛し、シャンソンを愛していたのは外ならぬご主人でした。今生きておられたら、「ヘェー! よく書けているじゃないか」といって喜んでくれたでしょうか。

 パリへ送り出す際、「一生、最後の一人旅。充実の時を送ってこいよ!」とハグしてくれたご主人は、その昔、よしこさんとの婚約中につぎのことばを贈っていました。

  Votre arm soit toujours jeunne!     君の魂はいつも若いよ!

 70にして果敢にも一人パリへ旅立つ女性。魂がしなやかでそれでいていつも若々しくて強い、何にでも恐れることなく近づいて触ってみる好奇心の持ち主、よしこさんはそんな素敵な女性です。

 

(イラスト:うつみよしこさん)

 


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