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マリー・ローランサン
堀口大學



加 藤 良 一

2007年1月3日




 信州、諏訪湖の近くに蓼科湖という人造湖がある。その湖畔に接するようにマリー・ローランサンの美術館が建っている。このような女流画家専門の美術館はあまり例がないという。
 ローランサンの代表的な絵といえば、若い女性をパステルトーンで描いた甘い雰囲気に満ちたものであろう。ローランサン美術館の展示作品は大部分が人物画で、そのほとんどが女性を描いたものであった。パステルトーンの絵を評して<お菓子の包装紙>などと
揶揄することもあるようだが、じつはローランサンをよく知らなかった頃の筆者も同じような印象をもっていた。暖色系の絵の具を太目の筆で大きく塗り分ける単純化されたフォルム、柔らかな色彩が特徴的である。しかし、それは画家としての後半生ででき上がったものである。習作時代に描かれた絵はかなり雰囲気が異なっている。
 ローランサンは「私の最大の誇りは、パリに生まれたこと」というほどパリに愛着をもっていた。お針子だった母親から私生児として生まれた負い目を振り払うかのように華やかなパリで贅沢を追い求める暮らしを楽しんだ。しかしそれとは裏腹に家庭人としては恵まれない一生を送った。


 ぜいたく好き。パリ生まれがとてもご自慢。
 「シルヴィー」(G・ド・ネルヴァルの詩)の歌を全部知っている。演説も、ひとの悪口も、忠告も、お世辞も好きじゃない。早く食べ、早く歩き、早く読む。とてもゆっくり絵を描く。


  ローランサンは自身の詩文集『夜の手帖』の略歴欄にこのような自己紹介文を記している。ぜいたく好きではあるが、社交界は苦手でマイペースな都会っ子ローランサンの人となりをかいまみることができて興味深い。

 ローランサンの生きた19世紀末から20紀初頭のパリは、アール・ヌーヴォー様式が全盛の時代でジャポニスムと呼ばれた日本趣味ももてはやされていた。パリの北に位置するモンマルトルの丘に一軒のぼろアパートがあった。そこはパブロ・ピカソのアトリエで<洗濯船>と呼ばれ、いつも新しい芸術運動に熱中する仲間が出入りしていた。洗濯船はまだ若かったピカソや詩人のギヨーム・アポリネールなど時代の寵児ともいうべき芸術家たちのたまり場となっていた。ローランサンがここに出入りするようになったのは、アカデミー・アンベール(私立の画塾)に入った20歳を過ぎたばかりの1906年のことだった。
 洗濯船でさまざまな芸術家と接触することでローランサンは多くの刺激を受けた。そして持って生まれた才能をみる間に開花させていった。ローランサンは当時最先端のキュビズムに深く傾倒し30歳のときにはエコール・ド・パリ(パリ派)と呼ばれた芸術家たちの中でも重要な一角を占めるようになっていた。

洗濯船Le Bateau-Lavoir)は、パリのモンマルトルにあった安アパートのこと。19041909年まで、ピカソが恋人のフェルナンド・オリビエと共にここに住んだ。ギヨーム・アポリネール、ジャン・コクトー、アンリ・マティスらも出入りし、芸術活動の拠点となった。細長い長屋のようなアパートで、ギシギシと音がするところから、まるでセーヌ川の洗濯船と似ているところから名付けられた。





画集マリー・ローランサン(求龍堂)より


  ローランサンは、洗濯船におけるアポリネールとの運命的な出会いののち、ローランサン22歳、アポリネール27歳のときに生活を共にするようになった。アポリネールは画家としてスタートラインに立ったばかりのローランサンの素質を見抜き、あらゆる面からサポートしたのである。しかし、ローランサンはやがてキュビズムの絵にも違和感を覚えるようになり、加えてアポリネールとの関係もマンネリ化しはじめた。そんな折にルーブル美術館の『モナリザ』が盗まれるという事件が発生し、たまたまアポリネールに嫌疑がかけられてしまった。結果的には無罪放免されはしたが、この事件をきっかけにローランサンはアポリネールへの恋がさめてしまい、6年間におよぶ恋愛関係にピリオドを打ったという。
 その後、ローランサンは31歳でドイツ人の金持ちと結婚しドイツ国籍を取得したが、直後に第一次世界大戦がはじまり、ドイツ国籍となっていたことからフランスを追われ夫と共にスペインに逃れた。異郷の地スペインで7年間に及ぶ亡命生活を余儀なくされた。ところが夫は大酒飲みで遊び好き。スペインでのローランサンは失意のうちに絵筆を持つ機会もめっきり減っていった。彼女が詩を書きはじめたのはこの頃とされている。

  ローランサンはまだ若かった詩人の堀口大學とも親交があった。堀口大學は男声合唱曲にもよく取り上げられているので合唱愛好家にはお馴染みである。2005年12月、男声合唱プロジェクトYARO会が合同演奏で歌った清水脩作曲、男声合唱組曲 『月光とピエロ』 は、堀口大學の同名の第一詩集から5篇を抜粋して曲をつけたものである。

  堀口大學とローランサンとの出会いは、外交官であった父九萬一(くまいち)によるところが大きい。父の任地は、メキシコ、ベルギー、スイス、スペイン、ブラジル、ルーマニア、フランスへと変わっていった。1919年マドリードを訪れた堀口大學は、折から亡命中のローランサンと親しくなり、アポリネールを教えられてすぐに熱中するようになった。さらに1923年、31歳のときに父とともにルーマニアを訪れたときは、ポール・モーランにも没頭し、さらにパリでローランサンと再会後、多くの詩人を紹介されている。

  堀口大學の詩風を評して「あの軽快な詩風の中に、やや蓮葉に、捨鉢風にであるが、充されない人生の空虚さの憂愁と倦怠とが、きはめて機智に富んで歌はれてゐるからであった。」と評するのは、山本健吉である。このあたり堀口大學がローランサンと一脈通ずるところであろうか。

  さて、話をローランサンに戻そう。失意のどん底で詩に救いを求めていたローランサンに、さらに追い討ちをかけるようにアポリネールの訃報が届いた。別れた男とはいえ、一度は心を通じ合った仲である。もう二度と会うことがないと思えば悲しみは深まるばかりであった。そんな悲しみのなかで書いた詩がよく知られる「鎮静剤」である。この詩は1916年、ローランサン33歳のときのもので堀口大學が和訳し詩集 『月下の一群』 に収めている

 



鎮 静 剤

     マリー・ローランサン(堀口大學訳)

退屈な女より もっと哀れなのは かなしい女です。

かなしい女より もっと哀れなのは 不幸な女です。

不幸な女より もつと哀れなのは 病気の女です。

病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です。

捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。

よるべない女より もっと哀れなのは 追はれた女です。

追はれた女より もつと哀れなのは 死んだ女です。

死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。

 



  「死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。」忘れられて生きるより死ぬほうがまし、人は誰かに愛され支えられてこそ生きることができる。恋多き女、ローランサンの苦しみが伝わってくる詩である。
  堀口大學のローランサンに対する入れ込みようは大したもので、「画集マリー・ローランサン」(求龍堂)の序に次のように書いている。



 ひと言
 生国フランスをはじめ、世界中の、どこの国でも、これほど豊富な内容のローランサン画集は、まだ出版されていない。よくぞこれほど探し出したものと、ただ感に入るばかりだ。それにしても日本のローランサンファンの何んと幸なことか。この画集の最初期から最晩年に至るまでの、代表作の集大成、百ページに余る大型の原色版が、かくも手軽な定価で入手出来、座右珍宝となし得るとは。
 巨匠ロダンに、「彼女は優雅の意味を知っている」と、感嘆させ、先駆の詩人アポリネールに、「このような女性の芸術は世紀の誇りを成すものだ」と言わせたこの女の作品は、造形美プラス詩情(ポエジー)、独特の世界、特に浮世絵を生んだ日本人の審美眼にぴったりのもの、これが一昨年と昨年と、矢つぎ早に二回までローランサン展がこの国で開催された所以であり、今またこの行届いた画集が出版される次第だが、はたち代の若かった昔から、この女(ひと)の芸術に心酔して来た僕は、よくぞこれまでやってくれましたと、求龍堂さんに、脱帽一礼して、この短い文章の結びとしよう。

                                               

1980年初秋


  おそらく堀口大學はローランサンに友情を通り越して恋心のようなものを感じていたにちがいないが、相手はそんな東洋の詩人のことなどには目をくれる余裕などなかっただろう。

  戦後、離婚してひとりパリに戻ってからローランサンの画風は大きく変わった。それまで彼女の絵に漂っていた憂いが消え、華やかで官能的な夢の世界の少女を描くようになった。「狂乱の1920年代」と呼ばれる爛熟した平和なひとときであった。この時代は、ローランサンに肖像画を描いてもらうことが上流婦人の流行にまでなり、舞台装置や衣装デザインなど天性の才能を発揮する機会に恵まれたしあわせな時期であった。

「三人の若い女」マリー・ローランサン美術館所蔵品図録より


  女優の黒柳徹子はローランサンについてつぎのように書いている。
  「ローランサンを初めて識ったのは、女学生のとき、少女雑誌の間に、はさまっていた付録の絵葉書みたいのでした。戦後の、なにもかもが汚れた生活の中で、そのローランサンの描いた、うれい顔の少女は、ピンクと淡いグレーの中にいて、とけてしまいそうに見えました。本当に、私の目には、それまで見たこともない、女らしい、それでいて、目を惹きつける強いもののある色でした。「ローランサン…。」私は、しっかりと、その画家の名前を、おぼえました。
  以来フランスからの展覧会があると聞けば、「もしかして、一枚でも彼女の作品があるか?」と、とんで行き、古本屋さんでは、「詩の一つでも、のっていれば!」と、立ちよみをしました。そして、見れば見るほど、好きになりました。繊細で幻のようでいながら、実は、大胆、強烈、一目で「ローランサン!」とわかる、その強さが、私にはたまらないのです。…」

 いっぽう、詩人アポリネールは、ローランサンとの別離を「ミラボー橋」(1913年)という詩として残した。ミラボー橋はセーヌ川にかかる鉄製の橋の名前である。この詩は、シャンソンにも歌われるほどパリっ子に親しまれた。

 



ミラボー橋

     ギヨーム・アポリネール(堀口大學訳)

ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ

   われ等の恋が流れる

  わたしは思ひ出す

悩みのあとには楽しみが来ると

    日も暮れよ 鐘も鳴れ

   月日は流れ わたしは残る

 

手と手をつなぎ顔と顔を向け合はう

   かうしていると

  われ等の腕の橋の下を

疲れた無窮の時が流れる

   日も暮れよ 鐘も鳴れ

   月日は流れ わたしは残る

 

流れる水のやうに恋も死んでゆく

   恋もまた死んでゆく

  命ばかりが長く

希望ばかりが大きい

   日も暮れよ 鐘も鳴れ

   月日は流れ わたしは残る

 

日が去り月が行き

   過ぎた時も

  昔の恋もふたたびは帰らない

ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる

   日も暮れよ 鐘も鳴れ

   月日は流れ わたしは残る

 



 「ミラボー橋」にはほかにも飯島耕一などいくつか訳がある。興味をもたれた方は探されるとよい。どちらがよいかはお好み次第というところである。

 ローランサンは、10年以上の歳月をかけて「三人の若い女」を完成させた3年後の1956年不帰の人となった。73歳であった。最期を看取ったのは、31年間生活をともにしたレスビアンの相手ともいわれている年下の女性だった。
 ローランサンは、遺志によって、白い衣装を着け、赤い薔薇を手に、そして生涯肌身離さず持ち歩いたアポリネールの手紙の束を胸に置いて、ペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。






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