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加 藤 良 一  2019年4月17日



ちょっと前のことになりますが、2017年、NHK-BSで『夢と野望の人生 落語界の風雲児』と題し、落語家立川談志を取り上げていました。1時間の番組でしたが、談志好きの私にとっては見逃せない番組でした。この番組は、全13巻の<立川談志遺言大全集>が下敷きになっていました。この全集、タイトルが振るっていますね。中でもとくに第11巻「落語論二 立川流落語論」からかなりの部分が引用されていました。

 百年に一人といわれた天才落語家立川談志(と、まぁこんな見方もあるということで…)は、昭和11年(1936)東京文京区生まれ、本名松岡克由といいます。考えてみれば「下町の玉三郎」と名乗っていた梅沢富美男だって「二百年に一人の芸人」だそうですから、このくらいいいじゃないですか。私は談志をすこぶる付きの落語家だと思っている一人です。
 談志の『夢と野望の人生』とはよく言ったもので、その破天荒な振舞いには、非難を浴びせられることもしばしばありましたし、称賛されることもありました。要するに一途で徹底した落語愛が究極まで登り詰めてしまった結果でしょうか。

 談志は、何ごとにも積極的で、読書が好きな子どもでした。読書とはいっても、戦前の「講談全集」やら「落語全集」など、そんじょそこらの子どもが手を出すわけがない本ばかりを好んで読んでいました。
 9歳で敗戦を経験。それまで子ども心に「いい戦争だと思っていたら、悪い戦争だということになった。この一事のために私はもはや何ごとも素直に見ない習慣を身に着けてしまった。」と、敗戦のショックは相当なものがあったのです。ただ単に戦争に敗けただけでなく、世の中の価値観が180度ひっくり返ってしまったことに不信感を抱きました。そんな体験が災いしてか──いや、幸いしてか…、世の中を斜に構えて見るような生意気なガキになりました。そんなわけで、学歴なんぞをとるより落語歴をとった方がよっぽどいいと思うようになったそうです。

 おじに連れられ、初めて寄席に行ったのが10歳のとき、それからというもの寄席に入り浸り、14歳のときにはずっと寄席に居たいと思うまでになってしまいました。そして、16歳のとき、母親にそのことを打ち明けたましたが、「とんでもない、恥ずかしいからよしとくれ」と相手にしてくれません。人に笑われるような人間(‘;’)にはなるなといわれた時代でした。まさか息子が人に笑われるような仕事につくことなど母親には考えられないことでした。それでもしつこく母親を説得し、柳家小さんのもとへ母親同伴で向かいました。
 弟子になりたいという松岡少年に小さんは、「大変だぞ、この稼業は。修行も長いし、派手に見えるかもしれないが、儲かる商売でもないし、できたらやめた方がいいよ。」と言い含めるのですが、

  「大丈夫です、できます、やります、平気です。」
  傍らで一部始終を見ていた母親は、ぽつりと漏らしました。
  「落語家の生活って案外まじめそうだね」
  
 というわけで、高校を中退し、晴れて落語の道に進むことになりました。頂いた芸名は、本名の克由からとった柳家小よしでした。

 見習いは朝一番に楽屋に飛び込み、火鉢に火を起こし、座布団をきれいに並べて師匠や兄弟子たちの来るのを待つのです。師匠や兄弟子が来れば来たで、身の回りの世話をぜんぶこなさなければならなかったのです。あるとき、「8時に来いと言ったら、なぜ7時半に来ないんだ」と怒鳴られたことがありました。言い訳をしようとすると「言い訳をするより、まず謝れ」とさらに怒鳴られてしまいました。向こうっ気が強いから悔しさが顔に出てしまい、そうなると余計に「生意気なやつ」と睨まれるのです。しまった! こんな世界だったのか」と気が付いてもあとの祭りです。

 そんなこんなで下っ端修行をしながらも、16歳で前座として初めて寄席に出ることになりました。記念すべき初高座です。座布団に座り、「え〜っ…」とやりだした途端、頭の中が真っ白になってしまったのです。恥さらしを白状しますと、かくいう私も娘のピアノと初めてフルートで共演した時にやはり頭の中が真っ白になって大失敗をやらかしています。

 それは置いといて、小よしはなんとかその場を切り抜けよう立て直そうと「落語をやります」とひと言しゃべったところ、妙に落ち着いてそのあとはすらすらと話を続けることができました。どんな落語でも一度聴けば覚えたという、もともと抜群の記憶力の持ち主だったのです。

 落語の階級は、前座→二ツ目→真打と昇進してゆく仕組みになっています。真打とは寄席で最後の高座を飾れる最高位、もちろんすべての落語家の一大目標です。入門した以上真打を目指して精進してゆきます。
 18歳で二ツ目に昇進、名前を柳家小ゑんと改めました。二ツ目になるとようやく一人前として扱われ、テレビやラジオに出ることが許されるようになります。このころにはすでに100席のレパートリーを持っていたそうです。2年ほどで100席の演目を習得するのがどの程度のものかわかりませんが、たぶんすごいのでしょう。

 芸を磨くためキャバレーにも出入りしました。新しい道を切り開こうとステージで立ったまま落語を演じる「スタンドアップ・コメディー」にもチャレンジしました。騒々しいキャバレーの中で演じるには、とにかく客をステージに振り向かせる必要があります。そこで、その日のプロ野球の結果や株式市場などの話題で客を惹きつける手にでました。これがのちにマクラにその時々の新鮮な話題を取り込むきっかけになったといいます。

 談志は若いころ、自分は所帯を持てるような人間じゃないと思っていました。しょせん、家庭からドロップアウトし、世間からもドロップアウトしていくのだろうと予感していたのです。それが、出会いとは恐ろしいもの、この人とならば何とかドロップアウトしないで済むだろうと思える人が現れたのです。その人とは、寄席の受付をしていた則子さんでしたが、実は彼女にはすでに婚約者がいました。ところが談志はそんなことで諦めはしません。なんと、その婚約者の男性に会いに行き、直談判の結果ついに結婚を諦めさせてしまいました。これって略奪婚ですかね。
 談志の長女、松岡ゆみこさんによれば、二人は年がら年中会っていたにもかかわらず、談志は大量のラブレターを送りつけていたというのです。「ああ見えて父はすごくロマンチストで、ママのことを天使のような人だと言っていた、ほんとは根っこのところでは優しい性格なんです」。昭和35年(196024歳で、則子さんと結婚しました。

 家庭も構え、一層芸に打ち込んでいた談志に、強烈なライバルが登場しました。古今亭志ん朝。ところがこの志ん朝が、ふつなら入門から10年掛かると言われる真打に、何人もの先輩を抜いてたったの5年で昇進してしまったんです。志ん朝の父は大名人といわれた古今亭志ん生ですが、病に倒れたものだから先を案じて「自分の目の黒いうちに…」と息子の真打ち昇進を前倒ししたといわれているから、談志にとっては見過ごせないものでした。
 先にこの道に入った先輩格の談志は、すぐさま志ん朝に「真打ちを辞退しろ」と迫ったが、「いや、アニさん、あたしは実力でみんなを抜いたと思っている」とあっけなく断られてしまいました。
 談志はのちにこの志ん朝の態度はじつに立派だったと語っています。そして、金を払って聞ける落語家は志ん朝だけだともいっているんです。現に、志ん朝の初席を観た人が舌を巻いたほど上手かったという話もありますし、志ん朝の完成度を目の当たりにしてさて自分はどうするか談志はもがき続けました。

 談志が真打昇進を果たしたのは志ん朝に遅れること1年、27歳のときでした。このときに五代目立川談志を襲名しました。ようやくしっかりした位置に立ったものの、いっぽうで落語の人気に陰りが見え始めた時期でもありました。危機感を感じた談志は<現代落語論>を出版し、「現代と大衆と古典をつなぎ合せる落語家がいなければ落語はかならずダメになる」と訴えました。
 いろいろ模索する中で、落語家が出演するテレビ番組『笑点』をスタートさせることになりました。昭和41年(1966)談志は30歳になっていました。『笑点』では自ら企画・演出し、司会まで担当しました。この番組が思わぬ人気を呼び、談志はこれで一躍時代の寵児となったのです。

 そんな中で談志は政治の世界にも首を突っ込むようになりました。昭和44年(1969)衆議院議員選挙に出馬したのです。それは、前年の参議院議員選で青島幸男、横山ノック、石原慎太郎というタレントが当選していたことに刺激を受けたものではあったでしょうが、談志いわく、落語家が落語だけやって、政治は政治家に任せるなんて、そんな常識的なやつが落語をやったって面白くもなんともねえ。「それ行け!」とオッチョコチョイが落語をやるから面白いんだと。しかし、政治の世界だってそんなに甘いわけないんで敢え無く落選してしまいました。
 その2年後、今度は参議院議員選挙に出馬、みごと当選しました。政治家になってからも落語がセコくなったといわれないよう落語にも熱心に取り組んだのは当然のことです。議員会館に弟子を呼んでは稽古をつけ、自らも寄席に出たといいます。

 昭和50年(1975)には、沖縄開発政務次官に就任、開催中の沖縄海洋博を視察しましたが、前の晩飲み過ぎて酷い二日酔い状態、それをゴマ化すためにサングラス姿で記者会見に現れたものだから、記者から意地の悪い質問がつぎつぎと飛びました。
 「沖縄の失業率は何パーセントか知っていますか?」「基地の面積は何パーセントか知っていますか?」「酒と公務とどっちが大事ですか?」と意地悪く矢継ぎ早に突っ込まれました。カチンときた談志は「酒に決まっているだろ!」とやり返してしまった。そう、このひと言で政務次官を辞任、任期はたったの36日間だったというオチです。

 昭和55年(1980)、落語協会では、真打昇進試験制度を導入。要するに真打ちに昇進できない二ツ目が何十人もたまっていることが問題になっていたからです。それは、落語家のテレビ露出度が高くなり人気が上がったことで志願者が増えたことが原因でした。そこで協会では、単なる年功ではなく試験によって決めるという手段に出ました。ところが、談志は合格基準なんて簡単に決められないと不満を示しましたが、協会は、そこはそれ試験とは名ばかり形ばかりで全員を合格させるというので、それならと同意しました。
 初回の試験ではそのとおり全員合格でした。ところが、3年後の試験で談志の弟子二人が不合格になってしまったのです。談志は烈火のごとく怒りました。過去の真打と比べてどうみても内容、技芸で真打の資格があると、師匠である談志自身が判断した弟子が試験に落とされたのです。黙っているわけにはいかない。これがきっかけで、とうとう落語協会を脱退してしまいました。当然のこととして、協会を脱退すれば通常の寄席には出られず、その他のホールなどを使わねばならなくなります。村八分、放浪の旅に出るようなものです。しかし、談志にしてみれば、協会を飛び出る不安よりも、そんな理不尽なところにいる不満の方がはるかに大きくなっていました。

 落語協会を脱退した談志は、昭和58年(1983)に《落語立川流》を旗揚げし、家元を名乗りました。日本舞踊などの家元制度と似たようなものでしょうか。立川流には、それまでの弟子に加え、ビートたけしや上岡龍太郎などが弟子入りしたし、手塚治虫やも森繁久彌という有名人などが顧問についたりもしました。しかし、談志の死後は主がいなくなったので家元制度を廃止し、弟子たちが代表や理事となって運営しているといいます。

 平成23年(20113月、喉頭がんに侵され、喉に穴を開けねばならなくなりました。娘松岡ゆみこは、手術で喋れなくなると告げましたが、オレらしくていいよ、といったそうです。これはどうみても強がりを言っているとしか思えませんが…。
 そして、手術直前の病室で『蜘蛛駕籠』という落語を淡々と一席やりました。それは若かったころ、師匠小さんから習ったものらしい。手術から8か月後談志は息を引き取りました。享年75歳。



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