K-51





道徳経済合一を説く 『ふるさとの渋沢栄一』に寄せて

 
加 藤 良 一  2020年9月30日




 渋沢栄一は、2021NHK大河ドラマ「青天を()」の主人公に選ばれ、さらに2024年に発行される新一万円札の顔としても採用が決まりました。出身地の埼玉県深谷市では郷土の偉人渋沢栄一顕彰×継承プロジェクト」を立ち上げ、その功績を広く知らしめる事業を行っています。
 渋沢栄一は、まさに時の人です。500もの企業を育て、600余りの社会公共事業に関わった「日本資本主義の父」と呼ばれる人物です。民間外交における尽力でノーベル平和賞候補に二度もノミネートされました。
 その渋沢栄一研究の第一人者である新井慎一氏が『ふるさとの渋沢栄一』を上梓されました。氏の主な著書にはほかに『渋沢栄一を生んだ「(ひがし)()()」の物語』、『渋沢栄一 父と子の物語』、『講演録 渋沢栄一のめざしたもの』、『渋沢栄一とその周辺』、『渋沢喜作書簡集(共編)』、『若き日の渋沢栄一 事上磨練の人生』などがあります。

 新井慎一氏は、深谷市郷土文化会会長および渋沢栄一顕彰事業株式会社代表取締役を務めています。『ふるさとの渋沢栄一』は、渋沢一族の勃興と発展の歴史および様々な人間模様を描き出したものです。このコロナ禍で作業が大幅に遅れようやく出版に漕ぎつけました。
 新井氏との出会いは、筆者が顧問を務める『歌劇<幕臣・渋沢平九郎>』の関係で、20202月深谷を訪れたときのことでした。その際、何冊かの著書を頂き、さらにその後刊行された『詩集 母への遠景』に感銘を受け、思わず書評を認めさせて頂きました。
(※『詩集 母への遠景』 新井慎一郎)


◇渋沢栄一の誕生、家業、父母、家系
 『ふるさとの渋沢栄一』は、栄一の誕生から始まり、生まれ育った血洗(ちあらい)(じま)の由来、家業の養蚕や(あい)(だま)の商い、父母や妻千代のこと、複雑な一族のこと、歴史上の重要人物である尾高新五郎尾高長七郎尾高平九郎(のち渋沢栄一の見立て養子となる)、渋沢喜作などを紹介しています。また付録として、主要な碑文、資料を配して解説、最後に関係する詳細な略年表を載せ、渋沢栄一の全体像を浮かび上がらせています。

 栄一は、江戸時代も末の天保11年(1840)、武蔵国榛沢(はんざわ)血洗(ちあらい)(じま)(現在の埼玉県深谷市)の農家に生まれました。農家とはいうものの、染料のもとになる(あい)(だま)づくりと養蚕を営んで大きな富を築き上げた地元の名家という経済的には恵まれた家庭環境に育ちました。
 栄一の生家は南向きに位置し、地理的に渋沢一族の中心にあったので「(なか)()()」と呼ばれました。ついで、「中の家」の前にあるから「(まえ)()()」、そこからさらに遠くの前は「遠前(とおまえ)()()」、さらに西方向は「西(にし)()()」、東は「(ひがし)()()」、「東の家」の分家で古い家を「古新宅(ふるしんたく)()()」、新しいのを「新屋敷(しんやしき)()()」と呼び分けています。「中の家」が本家筋とされていますが、地元では異論もあり、いまだ確定的ではないようです。

           

◇血洗島村
 血洗(ちあらい)(じま)とはちょっと不穏な地名です。その由来についてはいくつかの説があるといいます。北側の群馬県との境を流れる利根川は、太古の昔から氾濫を繰り返すため、一帯は米作りに向かない砂礫混じりの土地です。洪水のたびに「地」が洗われ、荒れるところから付いた名前ではないか、との説も紹介されていますが、「地」があまり穏当ではない「血」へと変わるのもいささか妙な感じがします。いっぽうで、江戸時代に血洗島の名主だった吉岡家には、落ち延びた武士が血塗られた刀を洗って百姓になったとの言い伝えもあるとされ、こちらのほうがやや繋がりが感じられます。

 明治23年(1890)血洗島村を含めた近隣の上手計(かみてばか)下手計(しもてばか)、北阿賀野などの八つの村を統合して八基(やつもと)村が発足し、栄一の父・市郎左衛門が初代村長となりました。村名は栄一の命名によるもので、「八」は単に八つの村の集まりではなく、日本の古称である「大八(おおや)(しま)」から採ったものです。日本の「(もとい)」にならんとする気概に溢れていました。

◇阿波から深谷へ伝わった(あい)(だま)づくり
 血洗島村は、米作に適さない土地柄でしたが、当時次第に需要が高まっていった絹織物のもととなる養蚕に欠かせない桑の栽培には、むしろこうした土地のほうが適していたのです。ピンチをチャンスへ、まさにマイナス要素を逆手に取って繁栄させました。

 渋沢家では養蚕に加えて、当時需要が高まってきた木綿の染料となる(あい)(だま)づくりにも手を広げ、各地の紺屋(こうや)と呼ばれる染物業者に売り歩きました。当時は掛売が一般的で、売掛金が回収できるまでは自己資金で賄わねばならず、経済的に余裕がないとできない商売でした。その点渋沢家は財力があったので、ますます商売が繁盛しました。血洗島の北を流れる利根川の中瀬(なかせ)河岸(がし)の船問屋に残された資料によると、安永時代(17721781)に始まった藍葉の栽培は、寛政(17891801)にかけてますます盛んになり、利根川を下った栗橋(現埼玉県久喜市)や幸手(さって)(現埼玉県幸手市)あたりからも買い付けに来ました。
 当時、藍玉といえば阿波(現徳島県)産が最良とされていました。ある時、その阿波から藍玉を売りに来た商人が病に倒れてしまいましたが、栗原村(現久喜市)の藤右衛門という紺屋が心を尽くして看病しました。回復した阿波の商人は、藤右衛門の恩に報うため、藍玉づくりの最新技法であった「寝かせ」を伝えました。これは藍葉を3か月ほど水を打ちながら蔵で寝かせて発酵させる重要な工程でした。この技法は、久喜、幸手、栗橋、行田、熊谷から深谷へと順次利根川を遡上するように伝わったといいます。

 中瀬河岸は、中世以来、武蔵国と上野国を結ぶ利根川の要衝地で、江戸時代には船運の行き来により旅籠が栄え、経済や文化の発信地として重要な役割を果たしていました。渋沢一族はじめ、深谷の興隆にはこの中瀬河岸の存在が欠かせなかったとまでいわれています。


◇才能を開花させた(あい)(だま)商売と漢詩づくり
 栄一19歳の安政5年(1858)、年上の従兄尾高(じゅん)(ちゅう)に付いて信州へ藍玉売りに出掛けました。当時漢詩にのめり込んでいた二人は、道すがら漢詩を作りながら商売もするという風流な旅を楽しんでいました。
 この旅で二人が作った漢詩を集めた『巡信紀詩』に、栄一が絶景を愛でた「内山峡」と題された詩があります。内山峡は現在の群馬県下仁田から長野県佐久にかけて広がる渓谷でした。著者はこの詩にこそ、将来の栄一の思想や生き様をみることができると次のように評価しています。
 「内山峡の絶景を謳いながら、名誉や利益を求めてあくせくと走り回って止まない生き方と、露を飲み霧を食らい行いすました仙人のような生き方と、両者を対比しながら、どちらも良しとせず、その中間にこそ人間の踏む行うべき本当の道があると主張したもので、栄一が後年主張することになる道徳経済合一説の萌芽をここに見ることが出来、たいへんに注目されます。」

 この漢詩の中の一節、「勢衝晴天攘臂蹟」からNHKの大河ドラマ『晴天(せいてん)()く』というタイトルが作られたようで、新井氏は、これを考えついた関係者の見識の高さに敬意を表しています。

     (いきおい)晴天(せいてん)()(ひじ)(ふる)って(のぼ)

日本を発展させた道徳経済合一説

 「道徳経済合一説」とは、栄一が大正5年(1916)に書いた『論語と算盤』で打ち出した理念です。幼少から学んだ『論語』をもとに倫理と利益の両立を掲げたものです。経済と利益は相反するものではなく、利益を独占することなく、富を共有することで国家全体を豊かにしようという思想です。
 「富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ」と述べ、終生変わらず貫き通しました。
 その背景には、当時は官尊民卑の風潮が幅を利かせ、「官」に優秀な人材が集中し、商工業は一段低く見られていたことがありました。そこで栄一は国を豊かにするためには商工業の発達が欠かせないとの信念に基づいて、道徳経済合一説を説き、商工業の地位向上に腐心しました。その結果、近代日本経済の父、実業界の最高指導者と目されるに至ったのです。


◇栄一に影響を与えた重要人物

 新井氏は『ふるさとの渋沢栄一』で、栄一と縁が深い人物を数人採り上げていますが、最初に出てくるのが尾高新五郎です。(いみな)(じゅん)(ちゅう)、号を(らん)(こう)と称し、新五郎は通称ということです。諱とは実名のこと。(じゅん)(ちゅう)は、学問に優れ、栄一の師となって大きな影響を与えましたが、また一族のリーダー的存在でもありました。当時学問とは即ち漢学を指し、栄一も『論語』を中心に中国古典を学びました。
 新井氏は、「思うに漢学とは、天下・国家をどうするかという政治哲学であるとともに、みずからいかに生きるべきかを考える道徳哲学でもあり、両者が混然一体となったところに、この現実をどう変革するかという、すぐれて実践的な問題が招来されることになる」としています。論語を学んだことが、その後の攘夷思想から始まり、一転して幕臣となり、さらには実業界へと進んでゆく実践基盤となったことは確かなことです。
 (じゅん)(ちゅう)の末の弟に尾高平九郎がいます。のちに栄一の見立て養子になり、彰義隊に加わって飯能戦争において官軍と戦い、深手を負って自ら自害するという悲惨な人生を送った人物です。
 余談ですが、平九郎の生涯を描いた歌劇<幕臣・渋沢平九郎>20205月に上演予定で準備を進めていましたが、青天の霹靂ともいうべき新型コロナウイルス感染症の蔓延でやむなく202126日に延期となってしまいました。ようやくこの927日に練習が再開でき、新たな気持ちで臨んでいるところです。平九郎についてはこちらに専用サイトがあります。ご参考までにご覧ください。         http://rkato.sakura.ne.jp/music/shibusawa_heikuro_top.html

◇碑文集と関連資料
 『ふるさとの渋沢栄一』の後半には付録として、関係する碑文や資料が掲載されています。ここでは新井氏の漢詩への造詣の深さが如何なく発揮され、碑文などに書かれた漢文を「読み下し」、注解を加えて理解を助けており、解説書としても大いに参考になるものです。
 複雑な渋沢一族の家系や本家・分家の関係を分かりやすくし、尾高家との関係なども載せ、渋沢栄一略年表と合わせ総集的にコンパクトに整理された案内資料として手元に置いておきたい一冊です。

 あとがきに、亡き母を偲ぶ俳句が載せられていました。

  紫陽花に雨の音聞く男子(をのこ)かな  (ゆう)(こう)


 



ことば/文芸 Topへ      Home Page(表紙)へ