避難所生活を余儀なくされている方々を見ていたら、とても気楽に買い物などする気になれない、コンサートなどに足を運ぶ気持ちになれない、ゴルフなどやっていていいのだろうか、いつもの飲み屋に行くのも何となく後ろめたい、などなど、今回の大震災で被災しなかった人びとの反応です。
被災者を思いやる気持ちはよくわかります。けれども、何でも自粛していては日本経済全体が縮小する一方です。そうなれば必然的に復興資金に回す金も生まれてきません。兆円単位で必要と思われる復興資金は、予備費や国債の発行だけではとうてい無理のようで、すでに増税の検討もされています。それほど今回の災害は未曾有の規模なのです。そんな中で、経済までもが縮小すれば、復興はますます厳しいものになってしまわないでしょうか。
ここでちょっと横道に逸れます。そもそも震災の名前は誰が決めるものでしょうか。報道機関などはどうだったかといえば、地震発生直後には「東北関東大震災」「東日本大震災」「東日本巨大地震」「東日本大地震」「3.11大震災」とさまざまな表現が使われてきました。これはある程度やむを得ないことです。しかし、3週間近く経過した現在でも、日経、朝日、毎日、産経の四大新聞、フジ、TBS、テレ朝、日テレは「東日本大震災」ですが、読売だけは「東日本巨大地震」ですし、NHKは「東北関東大震災」とまだ揃っていません。そこで、当の気象庁ではどう命名しているかみてみますと、次のように発表しています。
3月11日14時46分頃に三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が発生しました。この地震により宮城県栗原市で震度7、宮城県、福島県、茨城県、栃木県で震度6強など広い範囲で強い揺れを観測しました。また、太平洋沿岸を中心に高い津波を観測し、特に東北地方から関東地方の太平洋沿岸では大きな被害がありました。気象庁はこの地震を「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」と命名しました。
と、あります。なるほどそうなんです。気象庁はあくまでどのような「地震」だったかを地球科学的に捉えていて、その結果生ずる災害については別の問題だというわけです。したがって、〔大〕地震などとはいわないんでしょう。
大規模な地震災害では、関東地震→関東大震災、兵庫県南部地震→阪神・淡路大震災にみられるように、地震そのものとその結果発生する災害では、名称や表記が違ってくるわけです。地球科学と社会科学の違いということでしょうか。
ということで、本論に戻ります。
3月21日、この“なんやかや”欄に掲載した『自粛か、あるいは… ──大災害を目の前にして──』(E-79)で紹介した、わたしの大学時代の研究室の先輩Oさんから、会議のあとの「宴会」を挙行するかどうかで迷った件の顛末をお聞きしました。「宴会」は、大震災の全容すらまったく分からない混乱状況の中にあった6日後の3月17日に行われました。
当日の出席者の中で敢行を強くしかも理路整然と説得力をもって主張したのは、売上げ1兆2千億円の化学系企業の社長でした。当然のことながら、それなりに抑制を効かせ、話題も被災者の心境を思いやり、お通夜の様な状態になりました。当夜は他に13組の予約が入っていたようですが、10組ほどがキャンセルされたそうです。
宴会を敢行したことに女将が涙を出して感動して、我々の売上げ20万円はそっくりそのまま義援金にさせてもらうと申し出たので、それではと、一人当て5万円を上積みして計50万円にして義援金としました。無論、出席者の皆、会社でも、個人でも義援金をだしていますが、当夜の宴会をキャンセルしていたら、50万円の義援金は発生しなかったものです。これも、お金が回り回ったような気がしています。
「正義」とは、「倫理」とは、「公」とは、「私」とは、「経済活動と倫理のバランス」とは、果ては日本人がすきな「自粛」とは、となるとHarvard Univ.のサンデル教授の格好のテーマにでもなるでしょう。彼なら、きっと、たとえば、「人の命は皆等しく尊い筈(あくまでも「筈」です)のところ、昭和天皇が病気の際、日頃天皇など尊敬していないようなバー、カラオケ屋まで営業を自粛した。しかるに、カンボジャでの大逆殺になぜ平気でいられるのか?」とたたみかけて、導入していくでしょう。難しい課題です。
いかがでしょうか。店の女将は、宴会に来ていただいたことに涙ながらに感謝し、売り上げをそっくり義援金として寄付するというのもなかなかの人物ですし、そんな気持ちを汲んで、出席者全員がその場で一人頭5万円を上乗せするという話も大したものです。私だったら、カードでどうやって払うかということになりかねませんから。
さて、そこで、われわれも発想の転換を図って「消費」を「寄付」と考え、電力供給に負荷をかけない範囲で消費すべきではないでしょうか。そうすれば、回りまわって復興資金が確保できます。そんな前向きな発想をしてみてはどうかと考えていた折、3月25日の読売新聞〈編集手帳〉に、今回の大震災に関して、大正期の詩人で児童文学者でもあった山村暮鳥 の詩『桜』を取り上げての論評が載りました。山村暮鳥は、群馬県出身、キリスト教の伝道師でもありましたが、独特の神学感の持ち主であったため、異端として追放されたりもしたといいます。
さくらだといふ
春だといふ
一寸 、お待ち
どこかに
泣いている人もあろうに
◆人を悼 む心が花にもあるのか、今年はサクラの開花は遅めというが、それでも四国や九州から、ぽつりぽつりと花便りの届く季節を迎えた◆花に浮かれる心をたしなめて「泣いている人」を思いやった暮鳥の優しさにうなずきつつ、だが──とも思う。生き残った者の誰かしらが、生かされてある者の誰かが世の中の歯車を動かしていかねばならない。音は小さくとも、季節の催事も“ガッタン”と刻む歯車の一つだろう◆この春、多くの人が愛 でるのは、花ではなく、酒でもご馳走でもなく、生きてある身のありがたさに違いない。宴の筵 で、そういう供養もある。
暮鳥の詩『桜』について多くを語る必要はないでしょう。Oさんたちが挙行した宴会はまさに「宴の筵での供養」であったのではないでしょうか。ことのついでにOさんが関係している会社の事情をすこし紹介し、産業界に与えた大きな影響のいったんをご紹介し、この稿を閉じます。
弊職が相談役をしている企業の郡山にある物流センターが60%破壊され(もともと我が社の物流センターは、中身の増加により、臨機応変に増改築できるように、それほど強固にはつくっていなかったのが裏目に出て)ました。営業所、代理店も、札幌、苫小牧は無事、盛岡、仙台は全滅状態でした。
東北地方の販売額(建築資材、土木資材、農業資材等)で約80億円が消滅してしまい、今後回復の目途が付かない状態です。元来、東北地方に出先を設けるだけでコストが掛かり(雪害対策費として毎年約2千万円計上)ます。現在、中華人民共和国に生産拠点が5箇所ありますが、それらを強化して、販売先を海外に転換すべきではないかという意見が、大株主から出ています。他方、いずれ復興事業が開始されたら、建築資材、土木資材、農業資材等が必要になるから、ここは、耐えて、協力すべきではないかという意見も出ています。これは、各自動車会社等も皆同じだと思います。
今から、急遽、広島へ出張し、今後の経営方針の立て直しの会議に出席することになりました。今回の震災で直接実害がなかった企業にも、いずれ、悪影響が波及し、我が国の経済活動が深刻な状態になるのではと憂慮されます。
自粛が日本全体の「萎縮」にならないように心がけ、一日も早い復興を目指しましょう。
宴の
加 藤 良 一 2011年3月30日