M-168

 



そ の (いち)

1

 

加 藤 良 一

202014




動乱の幕末


物語の時代背景

大政奉還

平九郎の生い立ち

戊辰戦争と彰義隊結成



 動乱の幕末


 令和2523日、深谷市民文化ホール(埼玉県深谷市)で開催予定の歌劇<幕臣・渋沢平九郎>に合唱団・端役で出演することになった。
 この歌劇は3幕8場からなり、新進の作曲家・西下航平さんが作曲を手掛けている。脚本は声楽家で詩人でもある酒井 清さん、演出は指揮者の磯野隆一(たかかず)さん、オーケストラはぴとれ座、そして公募による「深谷で渋沢平九郎を歌う会」が合唱を歌う。この公募合唱団はそもそも「○○を歌う会」として埼玉県合唱祭などに出演するために不定期に活動している有志の集まりで、今回は気合を入れて歌劇に取り組むことになったものである。

 ところで、主人公の渋沢平九郎については、令和6年度(2024)に発行予定の新一万円札の顔に選ばれた渋沢栄一の養子だということは聞いたことがあるが、それ以上のことは知らなかった。平九郎は若くして自刃したので、残された記録や写真などが極めて少ない。上の肖像はほとんど唯一に近い写真ではないだろうか。 折角オペラでその生涯を扱うのだから、せめて平九郎がどのようにして短い生涯を閉じることになったのか、垣間見るだけでもと思いいくつかの書籍を紐解いてみた。


物語の時代背景
 歌劇の舞台は、江戸から明治へと移り変わる激動の幕末時代である。徹底した士農工商の身分制度のもと、頂点をなす武士階級が農民の困窮には目もくれず一方的に年貢や御用金を取り立てていた。疲弊し追い込まれた農民や庶民のあいだには、生きるために蜂起するものたちが現れていた。
 長期にわたった徳川幕藩体制にも綻びが見え始めた江戸後期、欧米諸国では蒸気船の発明により航海術が発達し、マルコポーロの記した黄金の国ジパングを求めて東洋への進出が盛んに行われた。その手は鎖国する我が国へも向かい、フランス、イギリスなど列強が次々と押し寄せてきた。
 嘉永6年(1853)、アメリカの黒船四隻が東京湾の浦賀沖に来航、日本の開国そして通商条約の締結を迫った。このときの、我が国の狼狽ぶりはつぎのような狂歌によく表現されている。

     
太平のねむりをさます正喜撰(じょうきせん) たった四はいで夜もねられず

 「正喜撰」は高級名茶の名前で、これを四隻の「蒸気船」にかけ、このお茶をたったの四杯飲んだだけで興奮してよく眠れないとかけた風刺である。このときやってきたアメリカの旗艦サスクエハナは黒塗りの鉄張りで3千5百トン、大砲が50門もあった。刀や鉄砲ていどではどうにも歯が立たない。
 徳川幕府にとってこの難題は手に余るもので、とうてい追い払うことができなかった。翌年には勅許(ちょっきょ)(天皇の許可)を得ずにアメリカと和親条約を結ぶに至った。そうなると、外国の脅威から日本を守ろうと排外思想である「攘夷論」が沸き起こり、君主を戴く「尊王論」と相まって「尊王攘夷運動」として一気に日本中に広まっていった。まさに天地がひっくり返るような動乱の時代であった。



大政奉還
 江戸幕府
15征夷大将軍徳川慶喜(よしのぶ)天保8:1837大正2:1913江戸幕府最後の将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍となっていた。また、在任中に江戸入城しなかった唯一の将軍でもあり、かつ最も長寿の将軍でもあった。
 その慶喜が、慶応3年(1867)10月、政権を朝廷に還した。いわゆる「大政奉還」である。これにより江戸幕府260年の長きにわたる時代は終わりを告げた。しかし、倒幕派は、さらに幕府が再興するのをきらい、政治を古来の天皇中心の政治に戻そうと、王政復古の大号令を発布した。
 いっぽうで、日本は開国によって生糸などの輸出が増えた結果、国内の在庫が品薄となり、つれて諸物価が上昇、庶民の暮らしは一層困窮を極めていった。ついにはもっとも肝心の米の価格が高騰、追い詰められた庶民は米価の引き下げを求めて「世直し一揆」が全国で勃発した。江戸時代に起きた百姓一揆や打ち壊しは3千件にものぼるといわれている。


平九郎の生い立ち
 のちに渋沢姓を名乗ることとなる平九郎は、弘化4年(1847)11月、武蔵国榛沢(はんざ)下手計(しもてばか)村(現・埼玉県深谷市)の尾高家に生まれた。詳しくは後述するが、思わぬことから隣り村の渋沢栄一天保11:1840昭和6:1931養子となったことにより、波乱万丈の短い人生を過ごすこととなってしまった。

 渋沢家は農業以外にも染料となる藍玉(あいだま)の製造販売や養蚕も手掛けて財を成した地方の豪農であった。栄一は、そんな恵まれた環境の中で剣術や学問も修めて育ったため、一介の農民とはいえず幅広い才覚に長けた人物となっていた。




 とは、タデ科の一年草、8月から10月にかけて紅色または白色の小さな花をつける。その葉や茎を発酵・熟成させて固めると黒色の染料となり、藍玉と呼ばれた。
 藍玉は、江戸時代以降、全国で盛んに製造されたが、明治に入ってインド産の流入や化学染料によって需要が減り衰退していった。

 栄一は長じて農民から引き上げられ徳川家に仕える幕臣となったが、慶応
3年(1867)将軍名代・徳川昭武(あきたけ)
嘉永6:1853明治43:1910の随行員としてフランスへ渡る話が持ち上がった際、お家の万が一に備え妻ちよの弟である尾高平九郎を見立て養子として貰い受けることにした。平九郎20歳のときである。期せずして渋沢一族の武士となった平九郎は、帯刀して江戸で幕臣としての生活をはじめることとなった。


戊辰(ぼしん)戦争と彰義隊結成
 慶応4年/明治元年(1868)から明治2年(1869)に掛け、薩摩・長州・土佐藩らが中核となった明治新政府軍と、旧幕府軍および奥羽越列藩同盟とのあいだに内戦が勃発した。これが「戊辰戦争」である。この戦争は慶応4年/明治元年の干支が「戊辰」であることから名付けられたものである。
 戊辰戦争は「鳥羽・伏見の戦い」に始まり、その後次々と全国規模で展開し、最期は函館五稜郭で榎本武揚(たけあき)が指揮して敗れた「箱館戦争」をもって終結した。

閑話休題。榎本武揚については安部公房の小説で読んで以来興味を持っている。前衛作品の多い安部文学においては一風変わった歴史小説であった。世間が天皇制維持を主張する「勤皇(勤王)」か、幕府擁護の「佐幕」かと騒ぐ中、そのどちらでもないことがあってもおかしくないと信じた榎本の姿を描いた作品である。「忠誠」と何か、「転向」とは何か、一筋縄ではいかないことを問いかけた小説である。

 平九郎が士分(武士)となって江戸に移り住んだ翌年、まさに「鳥羽・伏見の戦い」が開戦した。この戦いで薩摩藩士西郷隆盛文政10:1828明治10:1877率いる連合軍が旧幕府軍を破り、正式に官軍(新政府軍)と位置付けられるに至った。勝ち戦で勢いに乗った新政府軍は引き続き京から江戸へと進軍していった。
 新政府軍が江戸に討幕に向かうという事態に直面し、平九郎は幕府擁護のため「彰義隊」の結成に参画した。ここから平九郎の波乱の人生が始まった。彰義隊とは、「大義を(あきらか)かにする」という主旨で命名された部隊である。
 頭取には渋沢栄一の従兄である渋沢成一郎天保9:1838大正元:1912後に幼名喜作に改名、副頭取に天野八郎
天保2:1831明治元:1868が就任して結成された。

 そもそも戊辰戦争とはなんだったのか。歴史研究者により多少の違いはあるが、つぎのように定義している。
日本の統一をめぐる個別領有権の連合方式と、その否定および天皇への統合を必然化する方式との戦争(原口 清)
将来の絶対主義政権をめざす天皇政権と徳川政権との戦争(石井 孝)

 このように定義されるように、海外列強の脅威から日本をどう守るのか、どのような形で日本統一を目指すのか。それぞれの思惑や主義主張が入り混じった結果、日本を二分して力と力、意地と意地がぶつかり合うこととなった。

 終戦後、それまで官軍として仕えていた旧幕府軍はその座を奪われ、勝った新政府軍が新たに官軍に任命された。そこで「勝ってしまえば道理がどうであれ正義となる」ことを意味する「勝てば官軍負ければ賊軍」という言葉が誕生した。

錦の御旗は、天皇朝廷)の官軍)の。略称錦旗(きんき)別名菊章旗、日月旗とも。朝敵討伐の証として、天皇から官軍の大将に与えられた。


  ♪ 宮さん宮さん お馬の前に ひらひらするのは なんじゃいな
       トコトンヤレトンヤレナ
      ありや朝敵征伐せよとの 
錦の御旗じゃしらないか
       トコトンヤレトンヤレナ

 (つづく)


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【 公 演 】
2020年5月23日(土)
2021年2月6日(土)

深谷市民文化会館 大ホール

ホームページ  
https://www.unist.co.jp/heikuro/


 


 
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