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そ の ()

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加 藤 良 一


202019




渋沢平九郎が生きた時代

武州世直し一揆

彰義隊旗揚げ 「血誓状」


渋沢平九郎が生きた時代


武州世直し一揆
 平九郎が生きた時代について、前に述べたことと重複するのを厭わずもう少し説明を加える。
 15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返したいわゆる「大政奉還」の前の年、慶応2(1866)6月13日、武州で生活に疲弊した民衆が「世直し」や「世(なら)し」を叫んで立ち上がった。この騒動は武蔵国秩父郡上名栗村(現・埼玉県飯能市)から上がった(とき)の声で火蓋が切られ、現在の埼玉県西部を中心に闘いが展開されたものである。
 この騒動はのちに「武州世直し一揆」と呼ばれた。江戸時代は「百姓一揆の時代」ともいわれ全国で3千件も発生しているが、その中でもこの一揆は幕末最大規模の騒動となった。明治維新前夜における農民生活は、諸物価高騰や、政治動向─といってもすべて武士階級の要請でむりやり人足として狩り出されたり、御用金を押し付けられるなど極めて厳しい環境に追いやられたことが背景となっていた。
 武州一揆では、物価高騰の元凶は横浜開港場と結びついた豪農商にありとしてもっぱらそのような者たちを襲撃対象としていた。

 武州とは、武蔵国の別称で、現在の東京、埼玉、神奈川の一部が該当する広い行政区分であった。江戸幕府開府以後は徳川政権のお膝元となり、日本政治の中心地として重要視され、川越藩(現・川越市)、(おし)(現・行田市)、岩槻藩(現・さいたま市岩槻区)を「武蔵三藩」と呼んで、江戸の防衛にあてるため重臣が配属されていた。
 武州の名残としては、1924年から1938年まで武州鉄道が走っていた。この鉄道は、現在の蓮田駅から岩槻駅を経て川口市の神根駅に至る路線であった。また。埼玉県西部の鉄道駅には「武州唐沢駅」など武州の名が付く駅が多い。さらに国道299号の一部区間は武州街道とも呼ばれている。
 上州とは、上野国(こうずけのくに)の別称で、ほぼ現在の群馬県に該当する。武州と同じく東山道(とうさんどう)に属する。

 農民が窮乏生活を強いられただけでなく、いっぽうで村落内で地主として権力を持ち、金融や商業に携わっていた村役人や豪農たちは農民の困窮をよそにますます肥えていった。たとえば、同年5月以降、中山道大宮宿(現・さいたま市)では金一両で買える米が1斗3升にしかならず、日光道中粕壁(かすかべ)(現・春日部市)では1斗5升5合ほど、越ケ谷宿(現・越谷市)では1斗1升と異常な高騰を示した。各地でコメの安売り、質や借金などの棒引きを求めて争いが展開された。この一揆は同時多発的に関東一円に拡大し、幕藩体制に大きな衝撃を与えた。

 名栗谷に端を発した一揆勢は翌日には麓の飯能村(現・飯能市)に押し寄せ、多数の商家などを打ち壊した。一揆はさらに拡大しついには農民10万人が加わり、武州15部、上州2部を巻き込み、2百以上の村、520件の豪農や村役人が襲われた。
 一揆勢組織は、指導部を中心に、襲撃地との折衝に当たる先遣隊と実際に打ち壊にし当たる実動部隊とで構成されていた。一揆勢は相手が要求を飲めば、あとは地元の豪農商と村民との交渉に任せて次なる襲撃地に向かっていった。

 
 慶応3年(1867)10月、幕府は北関東の拠点である上州岩鼻(いわはな)代官所(現・群馬県高崎市)の補強のために羽生(はにゅう)町場(現・埼玉県羽生市)に陣屋が造られたが、維新政府が熊谷に到着した直後、一揆農民によって焼き払われてしまった。その翌日から一揆勢は、鴻巣(こうのす)加須(かぞ)、久喜へと向かい、130軒が打ち壊されたという。
 平九郎は豪農商の側に属する身であるが、この騒動をある意味では忸怩(じくじ)たる思いで眺めていたにちがいない。

 異なる時代の貨幣価値を比較するのはそう簡単はでないが、一つの目安として日銀の貨幣博物館の資料に基づいて大まかな米価をみてみると「当時と今の米の値段を比較すると、1両=約4万円、大工の手間賃では1両=30〜40万円、蕎麦の代金では1両=12〜13万円」と試算している。
 1合=180ml、1升=10合、1斗=10升、1石=10斗、1俵=4斗。1合の米はほぼ160gだというから、1升で1.6kg、1斗で16kg。そこで、大宮宿では1斗3升(20.8kg≒21kg)が1両(4万円)だから1kg当り1900円になる。


彰義隊旗揚げ 「血誓状」
 慶応4(1868)13日、「鳥羽・伏見の戦い」を契機に始まった戊辰戦争は、明治維新の成立に大きな役割を果たした。ところが、徳川慶喜はこの戦いの最中、大坂から海路江戸に逃れ、211日新政府の命令に従うとして恭順の意を表し、翌12日に上野・寛永寺に蟄居してしまった。
 これを受け同日、主君慶喜の冤罪をそそぎ、忠誠を示そうと、一橋家所縁の者ら17名が雑司が谷の酒楼茗荷屋に集まった。ついで217日には場所を四谷の円応寺に移し30名ほどで詮議を行った。

 さらに会合を重ねるうちに急激に同志が増え、気持ちが高ぶった者たちからは威勢のよい意見が飛び交う始末となり、議論百出で止まるところを知らない事態となってしまった。それでも同月21日には、単なる会合から組織へとまとまり「尊王恭順有志会」と名付けられ、いよいよ一戦を交える体勢が固まっていった。

 度重なる話し合いをもつにつれ、お互いの性格や器量を知るようになる中で、組織の大枠や各人の役割が次第に明らかになっていった。同月23日、浅草本願寺における結成式で、首領格と自他ともに認める渋沢成一郎(渋沢栄一のいとこ:現・深谷市出身)は、頃合いを見計らって意見を出した。

 「まず第一に、我々の目的は何かと言えば、必ずしも戦争をすることではない。主意は主君慶喜公の汚名をそそぐこと、すなわち、我が公のためにあくまでも無実を解き、勤王の御素志を天下に明らかにすることである。主人公の名誉回復が主目的である。しかし、形勢は急だ。我らの要請が聞き入れられぬ場合には、お互い武士であるから刀の手前、人事を尽くして天命にまかせ、ただ死を致すのみである。諸君、目下我が主君はいかなる有様か、主君は謹慎中である。主君の謹慎中に家臣たる我々が軽々しく戦争するなどというのはいけない。だからあくまで上様の意志を尊重して、平和のうちに嘆願をなすことにしたい。どうにも要請がいれられないとき、事が成らない際には一同心を一にして、武士の意地を貫き、死を以って目的を果たすということにしてはどうか」(岩上 進「幕末武州の青年群像」より)と述べ、聴き入っていた一同は賛意を示した。

 そこで、成一郎は予め用意してあった血誓文を読み上げた。「尽忠報国」とともに「薩賊討滅」を掲げ、一同これに異議なく同意し血誓状として全員が血判を押した。血誓状とは、血判状と同じことで誓いを認めた文書に署名し、自らの捺印したものである。

 また、いくつかの候補のなかから隊名を「彰義隊」とすることに衆議一決し、投票により頭取に渋沢成一郎、副頭取に天野八郎、幹事には彰義隊第一の英傑といわれた旧幕府の陸軍調役の(ばん) 門五郎(現・蕨市出身)などが決まった。


(つづく)


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【 公 演 】
2020年5月23日(土)
2021年2月6日(土)

深谷市民文化会館 大ホール

ホームページ  
https://www.unist.co.jp/heikuro/

 



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