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そ の (はち)

8

加 藤 良 一

2020313



彰義隊はなぜ分裂したのか?
渋沢成一郎と天野八郎の対立
彰義隊分裂、振武軍編成
彰義隊を支えた覚王院義観

一日にして終結した上野戦争


彰義隊はなぜ分裂したのか?

◇渋沢成一郎と天野八郎の対立
 彰義隊発足当初から、頭取渋沢成一郎(喜作)と副頭取天野八郎とのあいだはうまくいかなかったことは、以前書いたが、その理由はいったいどこにあったのか。ようやく一致団結したばかりだというのに、何故この二人は反目することになってしまったのか。些細なことならお互い武士として折り合いを付けられそうなものだが、何か決定的に譲れないものでもあったのか。

 大政奉還が行われた翌慶応4年/明治元年(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は新政府軍に敗れ、将軍徳川慶喜は大坂城を海路脱出、天皇に対して恭順の意を示して上野の山にある東叡山寛永寺大慈院に蟄居したが、さらに水戸謹慎の命が下り従わざるを得なかった。
 頭取の成一郎は、慶喜が江戸から水戸へと移ってしまった以上、彰義隊が江戸に残る理由はなくなった即刻退去すべしと主張した。それに対して、あくまでも江戸に残って徹底抗戦すべしと副頭取天野は真っ向から反対した。この主張の違いはその後の彰義隊の存続意義に関わる重大な問題で、隊士たちはその行く末を見守るしかなかった。

 両者の思いがこれだけ食い違った理由は果たしてどこにあったのか。
 二人とも同じように農村出身であり、天下国家を論じ青雲の志を抱いて江戸へ出てきたところも共通している。しかし、幕臣となるまでの過程には少なからず違いがあった。成一郎は、尾高惇忠渋沢栄一と共に攘夷思想を学び、平岡円四郎に見出されて一橋家の家臣となり、慶喜が将軍職に就くとなるに及んで幕臣となった。つまり一橋家を慕って家臣となった橋府随従(きょうふずいじゅう)身である。

徳川慶喜が寛永寺に謹慎を表明した慶応4211日、一橋家累代の家臣本多敏三郎と幕府陸軍調役伴門五郎により「橋府随従之有志」として檄文が発せられた。檄文には「君辱しめられれば臣死する」と書かれており、同調するにはそれ相当の覚悟がいったに相違ない。


 いっぽうの天野はといえば、江戸与力広浜利喜之進の養子となりそこから幕臣となっているが、ほどなく養子縁組を解消している。従って、一橋家と直接の関係を結ぶこともなく、さらに徳川家との縁も薄かった。


 彰義隊の発足当初、主君慶喜の行く末について成一郎天野はつぎのような話しを交わした。
 官軍はすでに近くまで迫っている、仮に慶喜に死罪が命じられるようなことになったら、我々は如何に振舞うべきだろうかと成一郎が問うと、天野は言下に、自分は徳川家の社稷(しゃしょく)(国家)を重んずる、故に主君が朝命により自決されるならそれは致し方ない。私は徳川家の復興を祈るのみである、と。
 慶喜を慕い命懸けで戦ってきた成一郎にとってそのことばは意外であった。とうてい受け入れられるものではなかった。我らは慶喜公を迎えて日光山に立て籠り、再挙の一戦を挑むと返した。


 個人的に慶喜を尊崇する成一郎と、慶喜個人ではなく将軍家そのものの存続を願う天野との間にはこれだけ大きい溝があった。両者の寄って立つ基盤は天地ほどの隔たりがあり、簡単に折り合いが付くものではなかった。
 さらに成一郎は、京都で一橋家に取り立てられ幕臣として仕え、その後鳥羽・伏見の戦いで敗れ、江戸へ移って来た者である。だから江戸から退去することに取り立てた抵抗もない。むしろそうすることで江戸を戦火から救えると思っていた。しかし、江戸に長く住みついていた天野は、とにかく江戸に愛着があったし、何より江戸市民が彰義隊にそれなりに期待を持っていることを肌で感じ取っていた。他にも彰義隊の軍資金調達問題なども絡み、ついに行動を共にすることができなくなってしまった。


彰義隊分裂、振武軍編成
 成一郎天野の対立が決定的なものとなったのは、旗揚げ時の浅草の時だったのか、あるいは上野に移動してからなのかはっきりわかってはいないというが、いずれにせよ両者はそもそも水と油のようなものだったことだけは確かである。
 成一郎が身を引いた後、天野は4月28日、正式に彰義隊の頭取となった。成一郎は、天野からあろうことか脱走者扱いを受け、命まで狙われる窮状に陥ってしまった。成一郎は市内あちこちに潜伏しなんとか難を免れていたが、いつまでも逃げ回ってばかりいるわけにもいかず、彰義隊を発足し頭取にもなった身でもある。一緒に脱退した仲間もいる。尾高惇忠(じゅんちゅう)(藍香)らと情勢を把握したうえで、彰義隊を離れ新たに振武軍を組織することに決した。


彰義隊を支えた覚王院義観(かくおういんぎかん)

 慶喜を受け入れた東叡山寛永寺大慈院執当の覚王院義観は、東征大総督有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を駿府城に訪ね、新政府に対して慶喜の助命と東征中止の嘆願を行った。しかしながら、助命は受け入れられたものの東征中止は新政府軍側に軽く一蹴されてしまった。この屈辱以来義観は新政府軍に対して極めて強い敵愾心を抱くようになった。以後、徹底抗戦を唱える主戦論者として彰義隊の活動を全面的に後押しするに及んだ。

寛永寺は、天台宗関東総本山の寺院、開基は徳川家光。その名は東の比叡山に由来する。徳川将軍家の菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として強大な権勢を誇ったが、上野戦争で主要な伽藍を焼失した。

覚王院義観は、幕末の天台宗の僧。本名金子劇三。武蔵国新座(にいざ)(現・埼玉県新座市)の農家に生まれる。慶応3(1867)輪王寺宮執当として上野寛永寺を統括。執当職というのは、輪王寺宮を補佐して、寺務一切を取り仕切る最高責任者であり、人格や学識が優れた僧が選ばれる。

東征大総督は、江戸幕府軍制圧のために明治新政府によって設置された臨時の軍司令官。戦争の指揮権や、徳川家および諸藩の処分の裁量権などが与えられた。



一日にして終結した上野戦争
 渋沢成一郎尾高惇忠、さらに渋沢平九郎などが脱退し、代わりに天野八郎が率いることとなった彰義隊は、あくまでも上野の山を死守する闘いに挑むことになった。その間にも、彰義隊は、短期間のうちに3千人にも及ぶ軍勢となり、新政府軍に対して大いなる脅威となっていた。

 5月14日、しびれを切らした新政府軍はついに上野の山の総攻撃を決定した。上野に籠っていたのは彰義隊の他にもあったが、度重なる解散要求に応じる気配はまったくなく、時間の経過と共に開戦は必至の状況となった。
 15日明け方6時頃開戦の火ぶたが切られた。その日は前日からの大雨で至る所泥濘(ぬかるみ)となっていた。彰義隊は不意を食らったことはあったが、襲撃に備えてそれなり準備はしていた。戦闘が激しさを増し本格化したのはそれから2時間ほど経ってからのことである。5月3日頃には2600人ほどの兵がいたが、戦闘開始時には脱走する者が増え、およそ半分程度まで減っていたという。寄せ集めの軍隊であるから天野のような身命を賭しているような者ばかりではなかったのだ。

 新政府軍は、湯島から黒門前(現・京成上野駅側からの入り口)を薩洲、肥後、因洲が固め、本郷の団子坂一帯には長州、肥前、筑後、大村、佐土原の各藩兵を配置、完全包囲網を敷いた。さらに沼田(現・群馬県沼田市)、下総古河(現・茨城県古河市)、武州忍(現・埼玉県行田市)、川越(現・埼玉県川越市)などの遠方にも新政府軍を派遣し、その退路を断つ作戦を講じていた。

 新政府軍は、加賀藩上屋敷(現在の東京大学構内)から不忍池越しにアームストロング砲などで砲撃を開始した。いっぽう、彰義隊は山王台(現在の西郷隆盛の銅像付近)から応戦、なんとか善戦したが、如何せん多勢に無勢、軍備も比較にならなかった。午後2時頃には新政府軍が圧倒しはじめ、彰義隊は劣勢を認識しないわけにはいかなくなった。
 けっきょく、夕方までには勝敗が決し、一日足らずの戦闘で寛永寺の根本中堂をはじめ、主要な建物を焼失、彰義隊もほぼ全滅、一部の残党は会津や函館方面へと敗走して行った。戦死者は、新政府軍41人、彰義隊205人とされている。
 いっぽう、彰義隊と袂を分かち、開戦前には既に田無に駐屯していた振武軍は、彰義隊危うしの知らせに援軍に動こうとしたが、時すでに遅く壊滅状態との知らせを受け、やむなく西の秩父方面を目指して退却して行った。しかし、新政府軍はなおも敗残兵の処分命令を受け、新たな掃討作戦の展開に入った。



 右上に『本能寺合戦の図』と書かれているが、実際には上野寛永寺の戦闘を描いたもの。画面左側の袴姿が彰義隊、右側の洋装が官軍。赤毛の長髪カツラを付けているのは土佐藩兵とのこと。


※最も栄えた頃の寛永寺は、現在の上野公園のほぼ全域が境内で、305,000坪(約100ha)の規模であった。本坊は、現在の東京国立博物館の位置にあった。上野の山は標高24.5m、東側の「下谷」に対して「上野」と名づけられた。今は、この上野の山に、国立西洋美術館はじめ、東京国立博物館、国立科学博物館、東京文化会館、東京都美術館、東京藝術大学など数多くの文化施設・教育施設が建っている。

 


上野戦争で跡かたなく焼失した寛永寺


 

(つづく)


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【 公 演 】
2020年5月23日(土)
2021年2月6日(土)

深谷市民文化会館 大ホール

ホームページ  
https://www.unist.co.jp/heikuro/

 



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