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そ の (きゅう)

9

加 藤 良 一

2020314



追い詰められる振武軍
振武軍、上野から田無に退却
決戦の地

振武軍本陣 能仁寺
北越戊辰戦争 五十嵐川曲渕の戦い


追い詰められる振武軍

振武軍、上野から田無に退却
 上野を後にした振武軍は田無村(現・西東京市田無)の法正寺に退いて江戸の様子を窺っていた。田無は、上野からさほど遠い距離ではない。上野で徹底抗戦に挑む彰義隊と新政府軍との間に一旦事が起これば、すぐにでも援軍に駆けつけられる。振武軍は彰義隊と袂を分かったものの、あくまで新政府軍と敵対する立場に変わりはなかった。
 しかし、戦闘開始後、彰義隊は援軍を待つこともなく一日足らずで壊滅、敗残兵は命からがら四方へ散ってしまい、時はすでに遅かった。援軍の必要はなくなったが、それより振武軍は態勢を立て直し、新政府軍との決戦に備えなければならない。


決戦の地
 振武軍は、田無村から箱根ヶ崎(現・東京都西多摩郡瑞穂町)に引き下がり、次いで飯能(はんのう)(現・埼玉県飯能市)へと移動した。最後の決戦地選考に当たって、それぞれの思いが交錯し議論百出で難航したが、ようやく飯能村羅漢山と決まった。
 その日は雨模様だった。振武軍四百の隊士は、いざ飯能村へと心を奮い立たせて進軍した。いっぽう、江戸の新政府軍は、彰義隊殲滅の勢いをもってすぐに振武軍の追討に動き出した。西の裏手に当たる秩父方面には武蔵三藩と呼ばれた川越藩(現・埼玉県川越市)、忍藩(現・埼玉県行田市)、岩槻藩(現・埼玉県さいたま市岩槻区)を配置、東寄りの川越には大村藩(現・長崎県大村市)、薩摩藩(現・鹿児島県:正式には鹿児島藩)その他が続々と集結、包囲網を敷いた。


振武軍本陣 能仁寺
 慶応4年/明治元年(1868)5月18日、次々と押し寄せてくる兵士の群れ、不穏な動きに、飯能村では多くの民家が固く戸を閉ざし、息を潜めて見守っていた。
 まずは、本陣をどこに構えるか決めねばならない。村内の手頃な寺々を物色し交渉するが、寺にしてみれば迷惑この上ない話しでおいそれとは応じてくれない。けっきょく無理強いして能仁寺に押しかけ、そこを本陣とした。他の隊士はそれぞれ四つの寺に入り込んだ。どうみても力づくの横暴極まりないものだったが、それが戦争というもの、武士というものだろうか。村人はひたすら耐えるしかなかった。
 いきなり四百もの兵士に食べさせ、休む場所も与えねばならないことになった。いくら戦争とはいえ、やはりそれ相当の代金を支払わねば誰も協力などしてはくれない。参謀格の渋沢平九郎は食糧の調達に奔走しなければならなかった。


北越戊辰戦争 五十嵐(いからし)曲渕(まがりふち)の戦い
 ここで渋沢平九郎から話題を変えて、戊辰戦争の別の局面に目を向けてみたい。
 合唱仲間で宮崎にお住いの親友荒川滋さん(フルトン男声合唱団)のご先祖である松下新藏(しんぞう)は、慶応4年/明治元年(1868)8月2日の北越戊辰戦争五十嵐川曲渕の戦いにおいて戦死を遂げていた。
 これは、曲渕(現・新潟県三条市)において、五十嵐川左岸に新政府軍、右岸に奥羽越列藩同盟軍がそれぞれ陣を敷き、死闘を繰り広げたものである。薩摩藩番兵二番隊には、西郷隆盛の弟西郷吉二郎がおり、同盟軍の放った銃弾を腰に受け、36歳で戦死している。その地では他にも薩摩藩士66名が死亡した。松下新藏も同じく82日受傷し15日に死去している。新藏は宮崎の穆佐(むかさ)地域の郷士として参戦していた。五十嵐川左岸曲渕堤防上に「戊辰戦役記念碑 日本の黎明」が建立されている。

※ 荒川さんが書かれた紹介文はこちら ⇒ 「北越戊辰戦争戦没者所感

(つづく)


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【 公 演 】
2020年5月23日(土)
2021年2月6日(土)

深谷市民文化会館 大ホール

ホームページ  
https://www.unist.co.jp/heikuro/

 



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