M-168-6
そ の陸
6
加 藤 良 一
2020年3月5日
寄り合い所帯の彰義隊
・ 平九郎身の処し方に迷う
・ ええじゃないか
・ 寄り合い所帯の彰義隊起ち上げ
寄り合い所帯の彰義隊
上野戦争については《その壱》でも触れたが、そのとき渋沢平九郎はどうしていたのだろうか、もう少しみてみたい。
◇平九郎、身の処し方に迷う
尾高平九郎が渋沢栄一の見立て養子となり渋沢姓を名乗って江戸に詰めるようになったのは、大政奉還間近の慶応3年(1867)であった。その翌慶応4年、時代は明治へと変わった。4月、徳川慶喜は江戸城を無血開城、遂に居城を官軍に明け渡すこととなった。慶喜はその後、上野寛永寺に一時謹慎蟄居していたが、いよいよ情勢が怪しくなると水戸へと退却せざるをえなくなった。
そんな騒然たる世情のなか、平九郎は文武修行に身が入らない日々を送っていた。いわゆる遊学の身であるが、幕臣としてこの事態に如何に処すべきか大いに悩んでいた。義父・渋沢栄一に行く末を相談したいところだが、栄一はパリ万博使節団として若干14歳の徳川昭武に従い渡仏中であった。
慶応4年(1868)3月8日、平九郎は、遠い空の下フランスにいる渋沢栄一宛てに思いを込めた一通の書簡を送った。そこには、戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が負け、新政府軍が江戸に迫ってきた、幕臣として痛心の至り、徳川家の大危急である、一刻も早い帰国をとの思いが綴られていた。手紙を認めているあいだも、万一に備えつねに左手は大刀の鯉口 (刀の鞘の口)を握りながら書いたともいわれている。それほど緊迫した状況だった。しかし、異国フランスは如何にも遠すぎる。平九郎の声は届かない。そして、目の前には火の手が迫っていた。
◇ええじゃないか
渋沢平九郎の江戸詰めと時を同じくして、近畿、四国、東海地方などの各地で「天から御札が降ってくる、これはよいことの前触れ」だ、「ええじゃないか ええじゃないか」と歌いながら乱舞して練り歩く民衆運動が流行った。
「ええじゃないか」騒動に興じる人びと(Wikipediaより)
これは、民衆運動というよりは一種の騒動に近いものだろう。なぜこのような乱痴気騒ぎが流行ったのだろうか。その背景には、士農工商による身分制度の弊害、その結果生まれた格差社会に対する民衆の鬱積した不満があったのではないかといわれる一方、囃子言葉とともに「世直し」を訴えることもあり、こうなるとまさに民衆運動ではないかとの見方もある。これに対し、さらに穿った見方として、討幕派が国内の混乱を企てた陽動作戦ではないかとの噂もあるという。
◇寄り合い所帯の彰義隊起ち上げ
栄一からの返事が届くこともなく、2月23日ついに彰義隊が結成された。
彰義隊は、頭取渋沢成一郎(喜作)、副頭取天野八郎、幹事本多敏三郎(晋 )、伴 門五郎、須永於莵之輔 (伝蔵)という、徳川慶喜側近の旧一橋系幕臣が中心となって組織された。そこ尾高惇忠とともに平九郎も参画した。隊は25名ずつを一組とし、組頭は投票によって選出した。
本多敏三郎(晋)の一人娘詮子の婿養子は、折原静六つまり本多静六である。本多静六は、東京大学教授、林学博士として学界に重きをなし、日比谷公園の設計も手掛けた人物。埼玉県菖蒲町(現・久喜市菖蒲)の出身である。
彰義隊結成の噂は瞬く間に市中へ広がり、同調する者が一気に増えていった。いずれも主君徳川慶喜の冤罪を晴らしたいと願っている。そこへ追い込んだ薩長は奸賊だと決めつけている者たちである。奸賊とは、表立って暴力を振るう者というより、裏でたちの悪いことを画策する者たちというような意味で、姦賊とも書く。それほどに強烈な憎しみを抱いていた。
このようにしてとにかく彰義隊は起ちあがったが、あくまで寄り合い所帯である。主君が絶対恭順するというのであれば、臣たる者もまた恭順すべしと主張する立場、奸賊が仕切る朝廷に今さら恭順を嘆願したところで真に受けるわけもないから奸賊を排除するのが先決だとする立場が真っ向からぶつかり合い、統制が困難な状況であった。
発足にあたって作成された「同盟哀訴申合書」ひとつを見ても、のちに尾高惇忠が記録したものと本多敏三郎(晋)のそれとでは食い違いがあったといわれている。歴史は残された記録がすべてであり、誰がどのような立場で記録したかによって微妙にあるいは大きく異なるものであるが、とにかく彰義隊は発足当初からすでに課題を内包していた。
慶喜が上野寛永寺に蟄居後、江戸城を仕切っていた津山藩主松平三河守斉民 から「慶喜公もすでに恭順されたこと故、粗暴な行動に及ばぬよう」と重ねて注意を受けながらも彰義隊の存在が一応公認された。
5月13日、官軍は江戸中に布令を発した。その内容は、脱走の輩つまり彰義隊などが上野山内の所々に屯集し、官兵の暗殺や、官軍と偽り略奪するなど凶暴になっている、見つけ次第討ち取る方針である、匿う様なことがあれば賊徒と同断にするというもので、両者の緊張は一気に高まっていった。
(つづく)
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【 公 演 】
2020年5月23日(土)
2021年2月6日(土)
深谷市民文化会館 大ホール
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