《 雑 感 》 平成16年 (2004)
1月4日 年の初めに 1月18日 「遥かな友に」送る 3月17日 労働は神が与えた罰 「はたらけ-!」 3月30日 カブリネイジアンとエボニックス 4月20日 天の詩人 草野心平 10月1日 目黒の秋刀魚 12月4日 思いもかけぬこと 吉田秀和氏に遭遇
12月4日 思いもかけぬこと 吉田秀和氏に遭遇
ひとに話したからといってさして興味を惹いてもらえないことでも、自分にとってはいつまでも忘れられない、きわめて個人的なことがらというものがある。
五、六年前の春先のことだった。わたしは、ちょうど朝のラッシュアワーも過ぎて、閑散としたJR上野駅の構内を歩いていた。すると斜め向うを黒いロングコートの背の高い男性が、とくに急ぐ様子もなく歩いて行く。やや長くした白髪まじりでヴォリュームのあるヘアスタイル。堂々としているけれども、だからといって威張った雰囲気はない。あれは、まちがいなく音楽評論家で水戸芸術館館長の吉田秀和氏だと、一瞬のうちに気がついた。よくテレビで観るまさにそのひとである。もしや人違いではないかなどとは考えもしなかった。それほど確信があった。わずかながら気後れを感じたが、わたしは近づいて声をかけた。
「おはようございます。あのう、失礼ですが、吉田先生ではございませんか。」
「あ、おはようございます。そうですが。」
「わたくし加藤と申します。じつは先生の大フアンなんです。いろいろな本を読ませていただいています。」
「そう、それはどうもありがとう。」
「先生、よろしかったらサインをいただけませんか。」
「かまいませんよ。」
なんという巡り合わせか、そのときたまたま文庫本ではあったが、吉田先生の書かれた『レコードのモーツアルト』を持ち歩いていた。それにしても、折角サインをもらえるというのに、どうして文庫本なんだ。もっと装丁の良い本をなぜ持っていなかったかと悔やまれたが、それはやむをえまい。吉田先生の本を持っていただけ
僥倖 というべきだ。
「ちょうど、先生の本を読んでいたところです。これにお願いします。」
鞄から本とボールペンを取り出し、先生に差し出した。先生にしてもいきなり声をかけてきた男が、文庫本とはいえご自分の書かれた本を持っていたから、軽い驚きを感じられたのだろう、ほほぅと笑みをもらされた。
「あなた、お名前何とおっしゃるの。」
「かとうりょういちです。加えるに藤、それに良いと数字の一です。」
吉田先生は、わたしの名前とご自身のサインをやや大きめの文字でさらりと書かれた。
「先生、まさかこんなところでお目にかかれるとは思いもしませんでした。ほんとうにありがとうございました。」
それから吉田先生は水戸方面行きの常磐線ホームに向かって歩いて行かれた。
思いがけない出来事とは、吉田秀和氏からサインをもらった、たったこれだけのことである。これだけのことではあるけれど、若いときから敬愛している吉田先生に突然お目にかかったまさにそのときに、先生の著書を持っていたという出来事が、わたしにはたんなる偶然とは思えなかった。
吉田先生は、大正2年生まれの今年91歳。東京日本橋の生まれである。わが国に音楽評論というジャンルを確立した先駆者ともいわれ、その長年の評論活動による功績から文化功労者にも選ばれている。集大成としての全24巻からなる『吉田秀和全集』(白水社)が、2004年11月に完結した。
吉田先生の文章は、言葉が的確で、かつ格調が高いにもかかわらず、平易で親しみやすく、じつに魅力的なものである。いま、平易といったがひょっとしてこれは正しくないかもしれない。
批評をしても、自分が一向に傷つかないような批評。それは、貧しい精神の批評だといわなければならないのではあるまいか。
何で他人の音楽をきくと、ものがいってみたくなるのか、それではき出せるのは、自分のへどだけだ。それなら、そのへどこそ書いてほしいのであって、ほかのことはみんな世間体でしかない。
このような姿勢で貫かれている吉田先生の批評は、ことばは平易であっても、読み手は真正面から対峙する覚悟がいるような気がする。吉田先生は、音楽のみならず芸術全般にわたる評論活動で、幅広い層の読者を得ており、わたしがよい読み手かどうか自信はないが、読者の末席に座らせていただきたいと願うひとりである。
その後、小著『音楽は体力です』を文芸社から出版したとき、吉田先生に笑われるのを覚悟のうえで、水戸芸術館宛に本をお送りしたが、果たしてお読みいただけただろうか。
すっかり秋らしくなってきた。味覚の秋でもある。
秋刀魚の季節になったな、と思い描きながら家に帰ると、なんとそこに漂う香ばしい匂いはまさしく秋刀魚である(以心伝心でもあるまいに…)。
この秋刀魚、どこで買ってきたと思う、とワイフが聞く。わざわざそんな聞き方をするところをみると、まず魚屋ではないなと察しがついてしまう(相変わらず話しのもって行き方に工夫がない…)。どうみても 週一回の生協で買うはずもないし、となれば、あそこ以外になかろう。わかった、○○○だろう、と近くの手広くやっている大きな八百屋の名前をあげた。いともたやすく正解が出てしまったが、そう、八百屋で秋刀魚を買ってきたのよ、と楽しそうであった。
さて、秋刀魚といえば八百屋ではなく東京の目黒に決まっている。もちろん落語の世界に限ったことだが。
落語に出てくる「目黒の秋刀魚」の発祥の地がどこか調べてみたら、それは中目黒と三田(慶応大学のある港区三田とはちがう)のあいだにある茶屋坂 だとわかった。茶屋坂は、目黒駅から世田谷方向に向う権之助坂 よりすこし北に位置している。近くには恵比寿のガーデンプレイスがある。このあたりは入り組んだ形になっていて、ガーデンプレイスの敷地は渋谷区と目黒区にまたがっている。茶屋坂に掛けられた標識にはつぎのように書かれているという。茶屋坂は江戸時代に、江戸から目黒に入る道の一つで、大きな松の生えた芝原の中をくねくねと下るつづら折りの坂で富士の眺めが良いところであった。この坂上に百姓彦四郎が開いた茶屋があって、三代将軍家光や八代将軍吉宗が鷹狩りに来た都度立ち寄って休んだ。
家光は彦四郎の人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたので、「爺々が茶屋」と呼ばれ広重の絵にも見えている。以来将軍が目黒筋へお成りのときは立ち寄って銀一枚を与えるのが例であったという。また十代将軍家治が立ち寄った時には団子と田楽を作って差し上げたりしている。
こんなことから「目黒の秋刀魚」の話が生れたのではないだろうか。
ところで、「目黒の秋刀魚」は有名な落語のお題だが、まさかこれをご存知ない方はおられないとは思うものの、万が一ということもあるし、それに若い方のなかには、そもそも落語など聞いたことがないという人がいるかも知れないので、かんたんにあらすじを紹介しよう。エー、その昔のことでございます。
お殿様がご家来を引き連れて遠乗りに出たのでございますが、目黒の野山を駆け巡っているうちに空腹をおぼえましたところ、ちょうど折りよく農家から一筋の煙がたちのぼり、いい匂いがしてきたもんですから、もうたまりません。家来に問うたところ、「あれは秋刀魚を焼いているところにございます」と申します。
江戸時代、秋刀魚なんざぁ貧乏人の食うもんでしたから、お殿様はもちろん知りません。家来がとめるのも聞かず、「これへ持て」と命じます。焼きたての秋刀魚を生まれてはじめて食したお殿様、その美味さにびっくり。お城へ戻りましてからも、目黒で食べた秋刀魚の味が忘れられず、もういちど食べたいと所望致します。
秋刀魚など料理したことのない台所方は大慌て。ようやくのこと秋刀魚が用意できたのですが、なにしろお殿様にお出しする料理ですから、粗相があってはなりません。まずは、骨が喉に引っかか っては大変と小骨まで全部抜き取ります。あぶらも殿のお体に悪かろうと、蒸してしっかり抜き、そのうえで煮てからお出ししました。これでお殿様がようやく食べられるかってぇと、そうはいかないんでございます。最後にご家老が毒見をし、それでやっとお殿様の前 に差し出されますから、もう冷め切ってしまいます。
おおいに楽しみにしていたお殿様、出てきた魚を見て、目黒で食べた秋刀魚とは似ても似つかぬ姿に怪しみながらも、ひとくちふたくち憐れな姿の秋刀魚を口に運びます。ところが、これがまずいのなんのって、とても食べられたものじゃあございません。
こんなこたぁ当り前のことでございまして、秋刀魚はなんと言いましても、焼きたてのあぶらの滴るヤツに大根おろしをのっけ、醤油をジュッとかけて食べるのが最高でございます。
「この秋刀魚はどこから取り寄せたのじゃ」
「ハハッ、日本橋の魚河岸にございます」
「どおりでまずいはずじゃ。やはり、秋刀魚は目黒にかぎる」
今月はじめ、福島県いわき市の草野心平記念文学館を訪れてきた。草野心平は、蛙の詩人とかあるいは富士山の詩人などと呼ばれている。しかし、 本人にとって、それは必ずしも本意ではなく、何の形容詞もなしに詩を読んで欲しいと願ったといわれている。 草野心平は、明治36年(1903)、福島県上小川村(現・いわき市小川町)に五人兄弟の次男として生まれた。ひどく癇の強い子供で、本を食いちぎり、鉛筆をかじり、誰かれとなく人に噛みつくような気性の激しさをもっていた。
詩や文学で飯が食えないのは現代でも同じだろうが、食うために赤提灯をぶら下げた飲み屋やバーを開いたが、ほとんど自分が飲みたいために経営していたのではないかと思わせるところがある。店には詩人や文人が集まり、喧々諤々の論議が展開されたという し、気に入らない客は追い出してしまった。草野心平は、まれにみる破天荒な人でもあった。
草野心平が蛙の詩人といわれるのは、蛙語を話すからだ。第一詩集は『第百階級』とされている。第百階級とはまさに蛙のことである。草野心平の詩には、さまざまな蛙語が飛び交っている。『定本 蛙』抄の一節を紹介しよう。りーりー りりる りりる りっふっふっふ/りーりー りりる りりる りっふっふっふ/りりんふ ふけんく/ふけんく けけっけ/…
ぎゃわろっぎゃわろっぎゃわろろろりっ/ぎゃわろっぎゃわろっぎゃわろろろりっ/ぎゃわろっぎゃわろっぎゃわろろろりっ/…そして「ごびらっふの独白」には、後半に日本語訳まで付いている。
るてえる びる もれとりり がいく。
ぐう であとびん むはありんく るてえる。
けえる さみんだ げらげれんで。
くろおむ てやあら ろん るるむ かみ う りりうむ。
なみかんた りんり。
(後略)
<日本語訳>
幸福というものはたわいなくつていいものだ。
おれはいま土のなかの靄のやうな幸福につつまれてゐる。
地上の夏の大歓喜の。
夜ひる眠らない馬力のはてに暗闇のなかの世界がくる。
みんな孤独で。
(後略)
詩集『富士山』は、昭和18年(1943)に作品17篇を収載して出版されたが、その後昭和41年にさらに富士山を主題とする他の詩を追加するかたちで、全26篇とした再出版されている。作曲家多田武彦は、そのなかから抜粋するかたちで5曲を選び出し男声合唱組曲として仕上げた。
富士山をまともに正面から詩として取り上げた詩人は、草野心平をおいてはいないといわれている。それほど、富士山の存在は大きく、近寄りがたいのか。完璧過ぎて、秀麗で、それを詩にうたおうとするとそのきっかけが掴めない。にもかかわらず草野心平は、富士とがっぷり四つに組んでくりかえしうたった。草野心平にとって富士山は、死火山ではなく活火山であった。
プロゴルファーのタイガー・ウッズは、自ら「カブリネイジアン」と称している。カブリネイジアン Cablinasian とは、白人=コゥケィジアン Caucasian、黒人=ブラック Black、アメリカ先住民=インディアン Indian、アジア人=エイジアン Asianの血が流れているということ。ウッズは、黒人の血が4分の1、タイ人が4分の1、中国人が4分の1、インディアンが8分の1、同じく白人が8分の1づつの混血だという。
Cablinasian の語源についてはもうひとつ由来があるようだ。それは、白人の部分がカリフォルニア California に置き換わっているものだが、カリフォルニアが必ずしも白人を指すことになるのかどうかはっきりしない。むしろカリフォルニアよりカリフォルニア人(?) Californian のほうがわかりやすいと思うが。ところで混血と絡めて、「エボニックス」という耳慣れない言葉がある。これはアフリカン・アメリカンの使う英語のことらしい。白人が喋る英語とアフリカン・アメリカンの英語では、微妙にちがっていて、エボニックスはあくまで公的な“正しい”英語ではないという。エボニックスは“悪い言語”と位置づけられてもいる。エボニックスの由来は“黒”を表すエボニーつまり黒檀からきている。社会的に成功した黒人や有色人種は、エボニックスを喋らないようだが、果たしてウッズはどんな言葉を喋るのだろう。
アメリカは、世界でもっとも自由な国であることは、今ではたぶん誰も疑わないだろう。人種のるつぼという形容も、ウッズの例をみれば十分にうなづけるが、しかし、そのいっぽうで人種差別はまだ根強く残っているようだし、偏見も簡単には消えないようだ。とにかくアメリカという国は、いろいろな意味でエキサイティングな国である。
作家の辻邦生ら六人の書き手による、南フランスの紀行文集「フランスの新しい風」という本がある。そのなかで、和田俊の「余暇は平和につながる」につぎのようなことが書かれていた。
労働観についてのヨーロッパと日本のちがいを考えるとき、やはり宗教の問題を離れて論じることはできない。フランスのあるジャーナリストが「カトリックの教えからいえば、労働は神が人間に与えた罰なのだ。だから働くことが善だとか、楽しいなどと考える日本人とは、ずいぶん隔たりがある」と指摘した。「だから、フランス人にとって、労働の場から逃れることは、一個の幸福なのだ」という。
二宮金次郎的に「働くことはよきことかな」という思想を持つ日本人は、「遊び」に対してちょっと気が引けるから、あえて「遊び」と「仕事」の境目をなくして「灰色」にしていると、フランス人ジャーナリストは鋭く見抜いた。なるほど、そうかもしれない、うまいことをいうものだ。
それに引き替え、フランス人にとっては、「仕事」と「余暇」とはまったく相容れない対立概念であって、それだけ「余暇」を重要視するわけだ。こんな背景があるのだから、ヴァカンス族のフランス人を単に遊び好きの怠け者とみる前に、余暇に関する彼我の哲学、考え方、歴史観のちがいといったものを認識する必要があろう。フランスのヴァカンスの歴史は、1936年に遡る。社会党内閣が、有給休暇制度、週40時間労働制などを実現し、労働者はそのとき初めてヴァカンスを享受できるようになった。週40時間といえば1日8時間として週5日間の就労、そして週休は2日になる。昭和11年にすでに現在の日本と同じような労働時間を達成していたのだ。
これからわかるように、元来フランス人が遊び好きだったのではなく、政策として生まれた文化だったといえよう。あぁ、わが日本に長期ヴァカンスの習慣が根付くのはいつになることか…。
暮れに一人の合唱仲間を失った。
昨年発足したつむぎの里ゆうき男声合唱団のトップテナー若井義則さんが、暮れも押し詰まった12月30日ご逝去された。昭和24年生まれ54歳。東京薬科大学卒業後、昭和48年公務員として栃木県に入り環境保全関連の仕事を歩んでこられ、直前まで足立健康福祉センターの課長として務めておられたとのこと。
パートがちがうこともあってさほど親しくしていたわけではないが、文字通り人生半分のところである。新しく生れた合唱団に入り、充実した人生を過ごそうという矢先であった。若くしてこの世を去った故人の無念さはいかばかりであったろうか。ゆうき男声では、1月の最初の練習のとき、故人のご冥福をお祈りして一分間の黙祷を捧げ、追悼の意を込めて「遥かな友に」を全員で歌った。
「遥かな友に」 磯部俶作詞・作曲
静かな夜ふけに いつもいつも
思い出すのは お前のこと
おやすみ安らかに たどれ夢路
おやすみ楽しく 今宵もまた
明るい星の夜は 遙かな空に
思い出すのは お前のこと
おやすみ安らかに たどれ夢路
おやすみ楽しく 今宵もまた
さびしい雪の夜は いろりの端で
思い出すのは お前のこと
おやすみ安らかに たどれ夢路
おやすみ楽しく 今宵もまた
歌いながらも仲間を失った悲しさで涙がこぼれてきた。まともな歌にはならなかった。音程も下がりまくっていた。若井さんは天国で苦笑しているであろう。へたな歌をありがとう、と。
ご冥福をお祈りしたい。
今日で私の正月休みも終わりである。 暮れのテニスのプレイ納め、あんさんぶる「ポパイ」忘年会、ちょぼっと大掃除、正月の朝寝朝酒、ワイフに御付き合いの初詣、映画鑑賞と、休みが9日間あったような気もしない うちに終わりが近づいてしまったが、とりあえずもう仕事モードにギアを切り換えないといけないだろう。
今年、電子年賀状なるものをはじめていただいた。薬業界の大先輩にあたるK氏からである。K氏は外国資本の企業のトップも勤められた方で、英語力に関しては私からみれば雲上の人である。 それはさておき、電子年賀状はNiftyグリーティングカードのアニメーションで出きていた。メールからNiftyのサイトへアクセスすると開く仕組みになっている。なかなかきれいなもので、そこから好きな画面を選んで返事を出すことも可能である。
Niftyのようなサイトからではなく、ご自分で作成された電子年賀状をメールに添付する形のものもいくつかいただいた。これからはいわゆる官製の年賀状も次第に姿を消してゆくのであろうか。世はまさに電子化の時代に入っている。
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