《 雑 感 》  平成15年 (2003)        



1月02日(木) 中島みゆき「地上の星」
1月17日(金) 小児救急の現状
1月31日(金)
 合唱団の名前
2月10日(月) The double helix -- 50 years
2月12日(水) 若い世代が見る「プロジェクトX」
2月18日(火) 科学の悪用
2月25日(火) 三寒四温
3月02日(日) 弥生三月
3月30日
(日) 戦争反対とHP閉鎖の意味
4月03日(木) 新年度の始まり
4月05日(土) 花に嵐のたとえもあるぞ
4月25日(金) 「えっ! このコピー駄目ですか?」
5月04日(日) 2003年は日本におけるトルコ年
5月18日(日) コンソレ
5月22日(木) 新聞記事の著作権
6月24日(火) 『富士山』 作品第 肆 「かわづら」
8月25日(月) シルク・ドゥ・ソレイユ
10月07日(火)
 酉の市 そして多田武彦先生と目黒
10月17日(金) ビアシェンケの魅力
10月26日(日) 一番うまいのがソプラノ?
11月11日(火) 蓮の花とデュエット
12月03日(水) 燕尾服を貸してもらえませんか?





12月3日(水)  燕尾服を貸してもらえませんか?

 10月半ばのことだったが、JAMCA(日本男声合唱協会)のメーリングリストに菅野哲男さんが、燕尾服を貸してくれとの依頼メールを流してきた。

>いつも変な投稿をする菅野です。
>今月末からウプサラで開催されるオルフェイ・ドレンガーの150周年記念の
>シンポジュームを聞きたく、そして記念の演奏会を聴きたくて申し込みました。
>4回ある演奏会の初日を申し込んだところ、向うから連絡があって、希望通り
>初日のチケットを割り当てること、そして、その晩にウプサラ城である祝賀
>晩餐会に出席するように、と言ってきました。
>ただ、その演奏会と祝賀晩餐会には燕尾服着用が義務というのです。
>燕尾服なんて持っていないのですが、せっかくのチャンスですので是非、参加
>したいと思います。
>ところが、燕尾服はレンタルで借りても結構高価なのです。
>私の体型にあった燕尾服をお持ちの方が居られましたら、どなたかお貸し
>いただけませんでしょうか?
>出発は今月29日、11月3日に帰国します。
(中略)
>菅野哲男

 バーバーショップ・コーラスを日本に広めようと活躍されている菅野哲男さんは、いっぽうでオルフェイ・ドレンガー大好き人間でもある。オルフェイ・ドレンガーOrphei Drangarとは、スウェーデン王立男声合唱団の正式名称で、1853年に生れた男声合唱団である。この団の詳しい情報は菅野さんのホームページにいろいろ紹介されているので、一度覗いてみて欲しい。

 菅野さんの燕尾服姿はいったいどんなだろうと想像してみるが、思い浮かびそうで浮かばない。今度写真でも公開してもらえないものだろうか。

>JMLの皆さん、
>いよいよ来週水曜日にスウェーデンに向けて出発することになりました。
>燕尾服は、本体はレンタルで、小物はレンタルと購入で揃えられそうな状況に
>なりました。皆さんにお願いなどして、お騒がせしました。
>ところで、ODの記念演奏会と祝賀晩餐会でなぜ燕尾服着用が義務付けられたか、
>昨日来たメールで分かりました。
>記念演奏会と祝賀晩餐会にはスウェーデン国王夫妻が出席するので祝賀晩餐会は
>燕尾服着用となった次第です。
>演奏会終了後、ウプサラ城に移動してすぐ祝賀晩餐会が始まるため着替えの時間も
>場所も無く、それで演奏会から燕尾服を着用するようにとの指示になりました。
>まるで、ノーベル賞の授賞式みたいな感じで、空恐ろしくなりつつあります。
>菅野哲男

 けっきょく燕尾服は誰からも借りられず(そんなもの持ってる人いるわけない)、レンタルで済ませたようである。それにしても菅野さんはずいぶんと晴れがましい経験をされたものだ。ウプサラ城でのご経験を「オルフェイ・ドレンガー」と題するエッセイとしてこのHPに投稿していただいた。

 

11月11日(火)  蓮の花とデュエット

  今日、思いもせぬ場所で男声のデュエットを聴くこととなった。それには鉦(かね)と鈴のような打楽器もついていた。衣装は日本古来の仏教に典型的なもので、主役は朱色の煌(きら)びやかなものを身に纏っていた。脇役は紺色のやや地味な衣装で控えていた。
 冒頭で荘重な般若心経を唱えたのち、一転してゆったりしたテンポの“唄”をデュエットで歌い始めた。基本的には斉唱で唄い進めてゆくのだが、音程の上下の幅はさほど広くなく、音が途切れないように交互にブレス (息継ぎ)しながらメロディをつなげていた。デュエットが終ったところで、いよいよ焼香が始まった。喪主と身内に続いて親類、その他の参列者の順に「一回のみのご焼香でお願いします」と念をおされての焼香である。

 男声デュエットを聴いたのは、じつは今日行われた通夜の一場面である。これまでたくさんの通夜や葬儀に参列したけれども、二人の僧侶がデュエットで“唄”を歌うのに出会ったのはこれが初めてのことだ。亡くなった方は70歳代の男性で、導師を勤めた大僧正とも懇意にされている方だったからか、読経後の大僧正の説教は、まず故人との思い出話をしたあと、「葬式に行ったときに何と挨拶するか」、「蓮の花をなぜ葬儀で 祭壇に飾るのか」、「死花花(しかばな:葬儀に使う造花)の意味は何か」というテーマであったから少なからず面食らった。

 葬式でよく聞かれるのが「このたびは、まことにどうも・……(ムニャムニャ)」という挨拶だが、これでは何を言っているのかわからない、もっときちんと表現しろとの説教だった。ここははっきりと「ご愁傷さま」と言わねばならない。
 祭壇には、正面のすぐ両脇に一対の金色の蓮の花が飾られていた。そこにはまだ蕾のものから、すでに萎れかけているもの、そして満開に咲いているものがあしらわれていた。蓮の花は、人間が先祖代々つながってゆくことを象徴しているとのことだった。蕾は子供、満開の花は元気で生きている者、萎れた花は年寄りを現していて、つねに先祖から子孫へと脈々と連なる繁栄のしるしだという。 また、蓮の花は泥にまみれた水底から這い出し水面にきれいな花を開く、これを施主が供えるところに大きな意味がある。
 また、死花花は実際には銀色に塗られていたが、白いのが本来らしい。いまは装飾的な面から銀色になってしまったように大僧正は言っていた。

 

10月26日(日)  一番うまいのがソプラノ?

 今月の日経「私の履歴書」欄は指揮者の岩城宏之氏が書いている。1日から31日までの連載である。生い立ちから始まって、ちょうど学習院の高等科で軟式野球部を創設するところまで話が進んできた。
 中等科のときに混声コーラス部に入った理由は、それがふだんいっしょになることがない女子部との唯一の接点だったからとか。その当時、氏の木琴の腕前はそうとうなものだったが、人前で歌うのははじめての経験であった。ドレミファソラシドと声を出したところ、予期に反して「君は来週の練習から、テノールで来なさい」といわれてしまった。なぜ予期に反したかといえば、歌がうまい順にソプラノから、アルト、テノール、バスと組み入れられると固く信じていたからである。自分は音楽が得意なのだからソプラノに入るべきだと。それほど音楽を知らなかったそうである。
 また、軟式野球部でキャッチャーをしていたときに、ファウルチップを受け損ねて右手の人差し指を突き指し骨が砕けてしまった。これが今でもピアノを弾けないという言い訳になっているらしい。氏は見かけ通りのヤンチャ坊主だったようだ。

 

10月17日(金)  ビアシェンケの魅力

 大宮ソニックシティの真向かいのビルに《ビアシェンケ》というビアホールがある。何かにつけてお邪魔している店だが、そこのマスターは一見哲学者を思わせる風貌に似合わず、優しく人懐こく接してくれる人である。マスターは、ご自分をケンちゃんと呼んで欲しいらしい。そのことについては、男声あんさんぶる「ポパイ」の関根さんが“YARO会”欄にくわしく紹介してくれているので、そちらをお読みいただこう。
 先日、ケンちゃんのところへ、11月に予定しているYARO会のコンサート・プログラムの広告をお願いに行ったところ、ふたつ返事で引き受けてくれた。そして、きょうメールが届いた。戦後の苦しかった時代を知る人ならではの説得力あるお話だ。無断で掲載してしまうが、ケンちゃんならきっと多くの方に聞いて欲しいはずだ。今度飲みに行ったときに事後承諾を取りつけることとしよう。

 

加藤様
 素晴らしいHPに私事でページを汚し申し訳ありません。今後ともよろしくお願い致します。昨夜帰宅途中携帯で拝見しましたが、文字制限で最後まで拝見できず今朝事務所で拝見いたしました。

 日本は戦後飢餓と国土の荒廃から立ち上がり今日の繁栄?を築いてきました。外地から引き上げてこられた方々も大変であったろうと思いますが迎え入れた焼け残り組も大変でした。いきなり親戚とは言え三世帯、四世帯の家族に膨れ上がった家は正に雑魚寝所帯。
 でもそのような中でもここまで立ち上がって来られた原動力は何であったのでしょうか。それは文化です。そう、音楽を中心にした文化を愛する国民性であったと思うのです。
 遠くシベリアに抑留された方々は収容所の中で限られた食と労働の中で・・・誰が唄うとも無くロシアの民謡を労働歌として、疲れた精神を癒す為唄い始めた歌は何時しか大合唱となり、隣にいる友をいたわる優しい心に変えてくれたのではないでしょうか?
 私の先輩は僅かな軽演劇の経験の中から、芝居を作ろう、抑留所の中に笑いをと仲間を集い、シーツに絵を書き背景画として演劇もどきをして暮らした、と言っておられました。帰ってこられ、あの食糧事情の中で全国に「喫茶店」が林立し、あちこちの喫茶店ではレコードから流れるクラシック音楽に耳を傾け、希望の灯を持ち続けておりました。政治、経済,いろいろな要素は勿論ありますが、ここでの問題として論じることではありません。

 そのように文化心が、自暴自棄にならずに困難な環境を克服できた大きな人間資産が支えであったと、私は思うのです。今皆さんは男声合唱を楽しんでおられます。私はいつも皆さんの合唱を聞くとき、戦地で、抑留所で、工場で、皆心を一つにする連帯意識を身に感じて涙します。文化は合唱に限りません。
 オペラをはじめとする舞台芸術、町の画家、家庭の画家、学校の幼い画家、彫刻、他写真もあるでしょう。押し絵、アートフラワーもあるでしょう。そんな文化、芸術(総じてアートと言いましょうか)を愛する人たちが集うところが、最近少なくなっていることが社会を暗くしているのではないでしょうか。他に目を向けず、自分の世界にのみ関心と欲望を求めている社会が、です。

 ビアホールはいろいろな考えや目的,興味を持つ人々が、自然発生的に集い共にしらぬ他人を認め合い、グラスを掲げるところとして発展してきました。高価な店ではありません。気楽な店です。楽器を持った青年達がいれば彼らに演奏させ、歌う仲間がいれば共に合唱し、人間のいたことに心和温めて明日の活力を生むところです。
 ごめんなさい!多言に過ぎました。又いつか語り合いましょう、そう・・・語り合うのも相手との心通わせることでした。テーブルの仲間以外に目を向けない! それは例え一人ではなくても「オタク」なのです。
 

論談風刺、楽しく人生を
************************
ビアシェンケ グルメ探検隊
      新道 健吾
************************
 

 

10月7日(火) 酉の市 そして多田武彦先生と目黒

 
おととい作曲家の多田武彦先生から電話をいただいた。
 ひとしきり音楽とくに合唱についてお話をされたが、何の話題だったか忘れたけれど、たまたま東京の目黒の話になった。じつは目黒は私の生まれ故郷だと告げたら、目黒のどちらですか、大鳥神社のそばですか、それとも駅のそばですか、と親近感をもって聞いてこられた。おや、多田先生も目黒にご縁があるのかとこちらも嬉しくなって、私の母校は下目黒小学校、先生は目黒をよくご存知なのですかとお尋ねしたら、作曲家になる前の銀行マン時代に目黒駅のそばの支店に勤めていたとのご返事であった。
 下目黒小学校は、駅から西の方へ、つまり世田谷方向へ向かう目黒通りのちょっと引っ込んだ場所にある。わかりにくいところだが、説明するとすぐに了解してくれた。

 そして今日、たまたま地下鉄の駅で手にした月間新聞メトロガイドに目をやると、「東京 酉の市 大百科」なる特集を組んでいた。
 新宿の花園神社、千束の鷲(おおとり)神社、深川の富岡八幡宮などいくつかあるなかに、伝統ある「目黒のお酉さま」として大鳥神社が紹介されていた。
 大鳥神社は、御祭神・主祭神が日本武尊(やまとたけるのみこと)とのことだが、子供のころはそんなことについてはまったく知らなかったはずだ。ただ、11月の酉の市になると、お神楽や火消衆の木遣が奉納され、熊手を売る店や露店がたくさん出るのが楽しみだった記憶しかない。大鳥神社で酉の市がはじまったのは江戸時代で、下目黒の造り酒屋 大国屋與兵衛が浅草から熊手を取り寄せたことに由来するそうだ。実家も商売をしていたから、たまには小さいながらも縁起物の熊手を買い求めたのではなかろうかと思うが、どうもこのあたりになると記憶が怪しい。
 また、何年かに一回、近隣の町々からお神輿が何台も大鳥神社に集まってくるお祭りもあった。私は下目黒二丁目だが、そこからは子供神輿も担いで行った。狭い町内を通り抜け、大通りに出ると前後にたくさんのお神輿に挟まれながら三丁目にある大鳥神社を目指した記憶が、こうして書いているうちに次第に蘇ってきた。あのころのお神輿は、子供でもしっかり肩で担いだもので、沿道の観客の視線が晴れがましかった。クッション替りにタオルを棒に巻きつけていたが、それでも肩の皮がよく剥けた。子供たちはそれをまるで勲章のように、痛い痛いといい合っては喜んでいたものである。

 多田武彦先生と目黒、たまたま男声合唱プロジェクトYARO会で『富士山』を演奏することになったご縁で思わぬつながりが発見できた。

 

8月25日(月) シルク・ドゥ・ソレイユ

月曜という日は、見たいテレビ番組がとりわけ少ない日である。というよりも、ふだんの日はニュースやスポーツ、音楽やドキュメンタリーとかが中心で、ドラマなどにはさして関心がもてないし、バラエティも興味がわかないから、あまりテレビはみないほうだろう。せいぜい長くても2時間がいいところ。ただサッカーだけは特別で、いい試合が続くと日に6〜7時間もみてしまうことがある。BS、スカパー、WOWOW、一般局と現在視聴可能な電波は何でも逃さない環境になっているからだ。ようするにずいぶん片寄った視聴者なのである。

さて、番組ヒデリの月曜だから、チャンネルをあちこちサーチするうち、海外のサーカスを紹介している番組が映し出された。それは、NHKハイビジョンで放映されていた「シルク・ドゥ・ソレイユの旅」と題するスペシャル番組だった。シルク・ドゥ・ソレイユ Cirque de soleil とは、太陽のサーカスとでも訳せばよいのだろうか、フランス語はよくわからない。
 ところが、驚いたことに、この番組をみて、サーカスに対する見方を根底から変えられた気がした。ここではサーカスは、たんに飛んだり跳ねたりという技術だけでなく、衣装、演技、照明、音楽、演出どれをとってもとことん突き詰めて仕上げられていて、いわば総合芸術として扱われているのには心底驚嘆せざるを得なかった。

いくつかあるなかのひとつに日本の能をみごとに採り入れたパフォーマンスを展開している「キダム」という団があった。彼らは日本の能舞台で実際に独自のパフォーマンスを演じてみせた。ご存知のとおり、能にはサーカスにくらべて激しい動きなどない。また舞台も狭く、これといって派手な大道具を使うこともない。演者の舞、合奏(囃子)、謡、そして最小限に抑えられた舞台装飾などで表現され、その見た目の簡素さは日本独特の世界であろう。舞台で繰り広げられるものがシンプルなだけに、観客は大いに想像力を働かせねばならないし、キダムの団員の言葉を借りれば、観客は能を「心でみている」という。

 キダムの男女二人が『 Vice Versa 』(ラテン語で反対に、逆に、逆もまた同様などの意)と名づけられたステージを披露した。
 舞台はもちろん能舞台であり、演じるのは半裸のガイコクジンである。囃子に合わせ静かに舞台に登場した二人が、まるで能のテンポと静謐さそのままに、ゆったりと力技を中心にした演技を展開した。能舞台に半裸の男女がいるのである。それだけでも異質の空間が出現していると感じさせるのに十分であるにもかかわらず、さらに二人が描き出す造形的な美しさは、たとえようのないものであった。
 鍛えられた筋肉と柔軟な身体は、力技の連続にも微動だにしない強靭さを発揮し、バランスのとれた肉体の美しさはそれだけで見ているものを釘付けにする。舞台は、展開にしたがって、囃子にシンセサイザーを使ったと思われるフュージョン系の音楽を混じえながら進み、かなりの時間演じていたと思われるのに、息が荒くなることもなく最後は静かに閉じた。
 彼らは、能の形式美を自らの世界に翻訳した。能のテンポはアダージョである。アダージョで力技を演じるには、ほんとうの力がなければできない。誤魔化しがきかないからだ。それでも彼らはサーカス団員である。芸術家でもないし、芸能人でもないが、そんなカテゴライズにどれだけの意味があるというのだろうか。世界の広さをまたひとつ思い知らされた。

 

6月24日(火) 『富士山』 作品第 肆 「かわづら」

このHPをときどきご覧頂いている方ならば、埼玉の男声合唱団が5団体結集した男声合唱プロジェクトYARO会のコンサートが11月23日(日)勤労感謝の日に企画されていることは、すでにご存知のことだろう。

そのコンサートのフィナーレで歌う合同演奏には、多田武彦の『富士山』をぶつけることにした。あまりに定番すぎてどうかという声もあったが、や はり富士山にかぎるという意見のほうが多かった。この曲は、草野心平の詩をもとにして作曲された名曲である。草野心平は、蛙の詩でよく知られた福島県生まれの詩人であるが、合唱に縁のない方にはあんがい馴染みが薄いのではないかと思う。

作曲家の多田武彦は、草野心平の詩集のなかから、作品第壹(一)」、「作品(四)」、「作品第拾陸(十六)」、「作品第拾捌(十八)」、「作品第貳拾壱(二十一)」の五つの詩を取り上げて、一組の男声合唱曲を作った。
 ( )内の漢数字は筆者が追加したもので、本来の曲集には書かれていない。作品番号だけではお互いによくわからないので、それぞれ順に、「ふもと」、「かわ づら」、「牛久」、「あぁ まるでくれない色の」、「平野すれすれ」などと、曲の冒頭に出てくる歌詞で言い表している。


川面に春の光はまぶしく溢れ

そよ風が吹けば光たちの鬼ごっこ

芦の葉のささやき

行行子は鳴く

行行子の舌にも春のひかり


 上の詩は作品(四)」の 冒頭の一部分である。行行子とは、「ギョギョシ」ではなく渡り鳥のヨシキリのこと。「ギョギョシ、ギョギョシ、ギョギョギョギョギョ」と聞こえる鳴き声から、行行子という字を当て嵌めたという説もある。

 
昨日、島崎弘幸氏の創作「釣り人」(E-37を掲載した 。すでにお読みの方も多いことと思う。そのなかで、島崎氏はヨシキリについてつぎのように書いている。


「カタキン、カタキン、リューリューリュー」葦のしげみでは、ヨシキリがはげしく鳴いていた。
 

どこのヨシキリが「ギョギョシ、ギョギョシ、ギョギョギョギョギョ」と鳴くのか知らない。少なくも高知では「カタキン、カタキン、リューリューリュー」と鳴いている ようだ。日本も狭いようでなかなか広い。
 11月23日の休日には、ぜひ男声合唱の名曲をお聴きにお出でいただきたい。JR浦和駅のすぐそばにある、さいたま会館大ホールで約100人の男声合唱をお贈りする予定である。
 

 

5月22日(木) 新聞記事の著作権

シュンポシオンの常連、島崎弘幸氏が、以前書かれた「乗らなくて良かった 大富豪の遺産相続」(E-20)に引用した新聞記事が著作権侵害に当たる可能性があるとして、このたび削除することを申し出てこられた。

島崎氏によれば、氏が引用した毎日新聞の記事は、「一応のルールに則っており、掲載を新聞社に届ければ著作権の侵害にはならないようですが、届けていないし、いまさら届ける程のことでもありません。すでに1年間掲載されて、問題にならなかったので、これからも問題にされることはないと思いますが、ただ、これからも長く掲載するのは適切で無い」とのお考えから削除に踏み切ったものである。
 氏が合わせて送ってくれた「ネットワーク上の著作権について――新聞・通信社が発信する情報をご利用の皆様に」と題する新聞社の警告文(?)では以下のように指摘している。参考までに全文を引用しておく。(まさか、これくらいは著作権から除外されるだろう)


要    約

 最近、新聞・通信社が新聞や電子メディアで発信する記事・写真などの情報を、インターネット上などで無断利用する事例がかなり目に付きます。無断で利用する人の多くは著作権問題があることに気が付いていないか、気が付いていても「個人のページに載せるのだから」「営利を目的とするわけではないから」といった理由で、「認められるだろう」と安易に考えているようです。

 しかし、新聞・通信社が発信するほとんどの情報には著作権があります。利用のルールは、インターネットなどの電子メディアの上でも、基本的には紙の上の場合と変わりありません。新聞・通信社が発信した情報を、インターネットなどの電子的なメディアで利用を希望される場合には、必ず発信元の新聞・通信社に連絡、ご相談くださるようお願いします。


引用して利用する場合には、いろいろな条件を守る必要があります

 著作権法第32条は「公表された著作物は、引用して利用することができる」としています。この規定に基づく引用は広く行われていますが、中には、記事をまるごと転載したあと、「日の□□新聞朝刊社会面から引用」などとして、これに対する自分の意見を付けているケースも見受けられます。また、記事全文を使えば「転載」(複製)だが一部だけなら「引用」だ、と考えている人も多いように思われます。

 しかし、著作権法第
32条は、「この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行われるものでなければならない」という枠をはめています。

 この規定に当てはめると、引用には、報道、批評、研究その他の目的に照らして、対象となった著作物を引用する必然性があり、引用の範囲にも合理性や必然性があることが必要で、必要最低限の範囲を超えて引用することは認められません。また、通常は質的にも量的にも、引用先が「主」、引用部分が「従」という主従の関係にあるという条件を満たしていなければいけないとされています。つまり、まず自らの創作性をもった著作物があることが前提条件であり、そこに補強材料として原典を引用してきている、という質的な問題の主従関係と、分量としても引用部分の方が地の文より少ないという関係にないといけません。

 表記の方法としては、引用部分を「」(カギかっこ)でくくるなど、本文と引用部分が区別できるようにすることが必要です。引用に際しては、原文のまま取り込むことが必要であり、書き換えたり、削ったりすると同一性保持権を侵害する可能性があります。また著作権法第
48条は「著作物の出所を、その複製又は利用の態様に応じ合理的と認められる方法及び程度により、明示しなければならない」と定めています。新聞記事の場合、「日の□□新聞朝刊」などの記載が必要です。


 後半に出てくる主張は重要であるが、あまり守られないように見受けられる。少なくも、他人の文章を引用するなら最低のルールを守る気持ちが必要であろう。そうでないならば、自分の著作もいい加減に扱われることに思いをいたすべきである。


 

5月18日(日) コンソレ

 テニスの試合に「コンソレ」というものがある。コンソレとは、コンソレーションConsolationの省略で、テニスの世界では敗者戦と呼んでいる。トーナメント方式で試合を行う場合、1回戦で負ければそれでお仕舞いである。わざわざ大会に参加したのに、1回しか試合ができないのでは可哀相じゃないかということで、勝てないプレーヤーの慰労救済策として考えられたのが、コンソレである。せっかく参加料を払ったのに1回戦だけで帰らせたのでは、二度とエントリーして来ないかもしれないという主催者の判断もある。

 Consolationのもともとの意味は、「慰め」とか「慰藉」だが、スポーツ用語としては「敗者戦」あるいは「敗者慰安試合」となる。あくまで敗者の「慰安」が目的だから、そこで勝ち抜いたからといって何ということはない。勝ったら本戦に返り咲いて、もう一度優勝も狙えるというような文字通りの「敗者復活戦」とは異なる。ちなみに敗者復活戦は、Repechageという。

 今日は栃木県でダブルスのテニス大会に参加してきた(これがあったから、昨夜、男声合唱の練習が終ったあとの飲み会は11時前に切り上げたのだ)。
 大会が行われた会場は、いまどきにしては珍しいクレーのコートである。クレーとは、昔ながらの土のコートのことで、足腰に負担がかからなくて楽な反面、雨が降ったあとや霜が降りる冬場は使えないという困ったところがある。もうひとつ困るのは、ラインに用いている白いビニール製のテープである。テープは釘で地面に止めてあるが、テープの脇はどうしても土が少しづつ削れて段差ができるので、ボールがラインに乗るとイレギュラーバウンドしてしまうのである。
 今回の会場も来年1億3千万円をかけてオムニコート(人工芝に砂をかけたもので、土の感触に近い)5面に改装するとの話しであった。今日も係りのおじさんがローラーをつなげたバギーでコートを盛んに走り回っていたが、整備の費用もばかにならないにちがいない。オムニにすれば経費の面でも多少寄与するかもしれない。

 ところで、今日の戦績はどうだったかというと、これが何ともしまらない結末となってしまった。序盤から中盤戦まで有利に試合を進めたにもかかわらず、落としてはいけないゲームを負け、そこからずるずると追い込まれ、けっきょくタイに持ち込まれてタイブレークとなった。タイブレークは7ポイントを先に取ったほうが勝つ方式である。それまでの勢いもどこへやら、なんとなく試合が終ってしまったという感じである。
 じつは、中盤までは調子もよかったし、われわれの勢いに相手ペアも自分たちの負けを認めているのがわかった。ギャラリーにもどうして負けたのか、と聞かれたくらいである。しかし、いま振り返ってみると、あのとき「相手ペアも自分たちの負けを認めている」と私が思い込んでしまった(ペアの相方がどうだったかは今度聞いてみることにしよう)ところに敗因があったかもしれない。つまり、試合が終らないうちに勝った気になってしまい、心にスキが出来たのだろう。そういう場合は、追い込まれ切迫したものがないから、ミスを犯しても何とかなるだろうという楽観的な気分が支配するものである。

 コンソレで思い出すのは、昨年大きなダブルスの大会に参加したときの妙な出来事である。その大会は主審がつく大会であった。2回戦まで進出したものの、調子が上がらず思い通りの試合が出来ないまま敗退してしまった。試合が終わり主審に挨拶すると、コンソレにエントリーできるから本部まで行くようにと言われた。こんなことは初めてだが、2回戦でもコンソレに出られるようなやり方に変えたらしい。

 いざコンソレでコートへ行ってみると、なんと相手は1回戦でわれらが負かしたペアではないか。相手もびっくりしたが、こちらも驚いた。相手は、どうしてコンソレで、さっき負けた相手とまたやらなくちゃならないのか、おかしいと言っていたが、本部が決めたことだから仕方がないということで、そのまま試合開始となった。結果は、1回戦と同じような内容でこちらが勝った。

 われわれは、さらにその後の試合も勝ち抜け、朝から始まった大会もそろそろ日没が近づくころ、ついにコンソレの決勝戦にまで到達した。いっぽうでは、本戦のほうも決勝戦まで進んでおり、これ以上コンソレを続けられないと判断した本部が、時間切れのためコンソレは両者を優勝とする、さらに、2回戦からコンソレへ出たことは内緒にしておいてくれと言われた。おかしいとは思っていたが、どうやら主審がわれわれの2回戦を1回戦と勘違いし、敗者に対してコンソレへ行けと指示したミスであることがわかった。
 私の唯一の「優勝」経験となったが、いまひとつその気になれない試合だった。しかし、どんなに小さな大会でも優勝するのはたいへんなことであるから、とりあえずは素直によろこぶことにした。

 

5月4日(日) 2003年は日本におけるトルコ年

日本には、トルコの姉妹都市がいくつかある。たとえば、日本有数のさくらんぼ産地として名高い山形県寒河江市は、同じくさくらんぼを栽培しているギレスン市と、チューリップの産地である富山県砺波市は、チューリップのふるさとといわれるヤロヴァ市とそれぞれ姉妹都市を結んでいる。

トルコといえば、ひと昔前は風俗店で「トルコ風呂」という不名誉な使われ方をされ、トルコからの抗議によって廃止された経緯があるが、そんな名前も知らない若い人が増えていることだろう。むしろ今では、世界遺産のカッパドキア、トルコ行進曲、そしてトルココーヒーやシシケバブに代表されるトルコ料理などがすぐに思い出される。

ところで、今年は「日本におけるトルコ年」であるというが、果たしてどれだけの人が知っているだろうか。トルコは遠くて近い国。昨年のサッカー・ワールドカップでは、日本代表がトルコと対戦し、とくにイルハン選手は可愛らしい髪型に似合わない豪快なプレーが人気を博し、日本にも多くのファンを作った。トルコでイルハン選手の試合を観て、記念写真も一緒に撮れる「イルハン・ツアー」なるものもあるそうだ。イルハンと写真が撮れるならと、日本に来てこのツアーに参加したいというトルコ人もいるらしい。

 

4月25日(金) 「えっ! このコピー駄目ですか?」

 「コピーを全面禁止してはいません。ルールに沿った正しいコピーをしましょう。」
 社団法人自然科学書協会の新聞広告である。東京ビッグサイトで開催されている東京国際ブックフェア2003に、この協会も出展している。
 「著作物の無許諾コピーは違法です!」  いわく、「知的財産国・科学技術創造立国としてルールに沿った正しいコピーが慣行される社会の実現にご協力をお願いいたします。」
 「正しいコピーのとり方を」  いわく、「自然科学書に代表される学術・専門書(電子媒体を含む)は、著作者の労作が、出版者の発意と編集者の努力によって出版物として生み出されたものです。出版物(著作物)をコピーする場合は、必ず奥付または扉裏を見て、@発行元、A(株)日本著作出版権管理システム(JCLS)、B(社)日本複写権センター(JRRC)の何れかに確認し、許諾を得て行うようにして下さい。」

 その昔、海賊版で洋書を買っていた学生時代があった。いくら貧しい時代とはいえ何とも浅ましいことだった。そんなことまでして掻き込んだ知識なぞさして身についていないのではなかろうか。海賊版は安直にコピーしたものだから、ページごとに印刷の色がちがっていたり、じつにありがた味のないものだった。
 たとえば、いま手元にある
J.D.ワトソン(DNAの二重らせん構造解明でノーベル賞を受賞)の「MOLECULAR BIOLOGY OF THE GENE」(遺伝子の分子生物学)は、厚さがゆうに4センチ以上ある大部の本だが、何のことはない、紙質が悪くてかさばっているだけだ。そんな本でもバイブルのようにして丹念に読んだものだ。(威張れることじゃなかろうに…)
 いまの日本では、こんな海賊版が出回ることは絶対にないだろうことを期待する。(ちょっと虫がよすぎるかな…)

 

4月5日(土)  花に嵐のたとえもあるぞ

君 に 勧 む 金 屈 巵(きんくっし)

満 酌 辞 す る を 須(もち) い ず

花 発(ひら) け ば 風 雨 多 く

人 生 別 離 足 る

 この詩は、唐の于武陵(うぶりょう)の五言絶句「勧酒」である。
 
これを井伏鱒二がつぎのように訳しているが、ずっとくだけた調子で思わず頷いてしまう。

こ の 杯 を 受 け て く れ

ど う ぞ な み な み 注 が し て お く れ

花 に 嵐 の た と え も あ る ぞ

さ よ な ら だ け が 人 生 だ

 関東地方の桜はいまが盛りなのに、きょうのこの雨と風はひどい話しだ。つい「花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」と呟いてしまう。日本酒の温度にはいろいろな名前が 付いているが、花冷え(はなひえ)は10℃を指していて、ちょうどきょうの天気のよう。 桜とお酒、切り離せないもののひとつである。詳しくは「日本酒、この多様さ」をご覧あれ。

 それにしても、どうして日本人はこ れほど桜を好むのだろう。「いにしえの奈良の都の八重桜けふ九重ににほいぬるかな」(伊勢大輔)と歌われた八重桜は突然変異種だそうだが、そのほかにもたくさんの種類がある。ソメイヨシノは寿命が60年くらいしかなく、いまは絶滅の危機に瀕しているらしい。だいたい桜は、樹齢が数十年と人間と似ていることもあって、人工的な 交配、植樹を繰り返しているためにさまざまな品種が出てくるのだろう。

 また、桜には冬のあいだの寒さが大切だという。寒ければ寒いほど春になって見事な花を開く。じつに象徴的な話しではないか。日本の新年度のはじまりを四月としている理由も、これでなんとなくわかるような気がする。
 このような季節の移り変わり感が少ない外国では9月を新年度としているから、海外留学する学生やビジネスで海外駐在する人などにとってはやりにくいことが多いらしい。だから日本の年度もグロ−バライゼーションせよという主張があるが、日本に桜があるかぎりむずかしそうである。

 

 

4月3日(木) 新年度の始まり


>  早いものでこのHPも開設以来、先月で満1年を経過した。息子の力を借りながらどうにか運営しているが、レイアウトの問題などまだまだ思うようにいかないことが多い。
 訪問者の数を示すカウンターは、HPの一つの目安になるかと思うが、これがときとして訳も分からずにクリアされてしまうことがある。素人が使うようなソフトは大して信頼性がないのだろうか。カウンターなどなくてもとくに困ることはないので、とりあえず気にしないことにしている。
 それにつけても、過去1年間で約1万3千ヒット、リピーターの方が多いかと思うが、いろいろなコミュニケーションができた。これはこれで一つの楽しみでもある。

> 桃の花は桜よりひと足早く咲く。
 茨城県古河市で日本一と称する“桃まつり”が開催されている。写真は先週の日曜の風景である。木によって咲き方にちがいがあるが、平均すれば八分咲きといったところ。2千本の桃が一面にピンクの花をつけるなかで頬張る弁当の味はひとしおである。春爛漫の桃源郷で久しぶりにゆったりした気分を満喫した。

> 茨城県西南部に新しい男声合唱団が誕生したという話しを1月31日(↓)のこの欄に書いた。その合唱団の名前が、徹底的かつ民主的な投票方式により、ようやく決まった。その名も『つむぎの里 ゆうき男声合唱団』。本拠地は結城市にあることから“紬”にちなんで名づけられたものである。デヴュー演奏は、6月1日に行われる茨城県合唱祭を予定している。

 

3月30日(日) 戦争反対とHP閉鎖の意味

>  戦争反対の意思表明のためにHPを閉鎖いたしております。皆々様にまず
> お知らせするべきところなのにそれもせず申しわけありません。
>  ISOと政治とは関係のないことではありますが、個人的なHPなので
> 勝手な振る舞いをご容赦ください。HPを再開できる日が一日も早く来ることを
> 願っています。
> The Quality Seminar 管理人

 上のメール文は、たまたま筆者が参加しているISO9001に関するメーリングリストに流されてきたメールである。ISO9001とは、 第三者認証による品質保証システム。メールの主が閉鎖したというホームページは、ISO9001に関するいろいろな情報が得られる人気のサイトである。この世界では著書も出版している、ちょっと有名な方である。早速そのHPを覗いてみると、リンクが切れた状態になっていた。

 メールの主が反対している戦争とは、当然いままさに行われているイラク戦争のこと。戦争反対の意思表示にはいろいろな方法がある。戦地イラクに入り込んで人間の盾になる人、デモ行進に参加する人、路上に寝転んでダイ・インする人、さまざまな意思表示があってよい。
 メールの主は、自分が出来ることとして、自らのホームページを閉鎖するという行動に出た。しかし、ここでちょっと考えてみたいのは、果たしてISO9001のホームページを何の表示もなく閉鎖することが、戦争反対の意思表示となるかどうかである。つまり、そのホームページを訪問した人は、いままで見えていたものが表示されず、あたかもシステムがトラブっているかのように思うだけである。たまたまメーリングリストに参加している人には事情が分かっているけれど、参加していない人はわけが分からず戸惑うばかりである。本人の気持ちは分からないでもない。しかし、もっとやり方があるように思うがいかがであろうか。

 たとえば、一方的に閉鎖するのではなく、ホームページの表紙(TOP)に戦争に反対して閉鎖している旨を掲載しておくとか、何かほかに方法があるように思う。ここは政治の話をする場ではないので政治的発言はしないが、国際品質保証規格ISO9001と政治は基本的に無縁のものである。それを押して関連付けるのは、ご本人が言う通り「勝手な振る舞い」であり、残念ながら賛同することはできない。

 

3月2日(日) 弥生三月

 三月は、古代ローマ暦では一年の最初の月とされていた。March という英名は、農業と戦争の神 Mars (マルス)に由来しており、三月は風が吹き荒れることから、軍神マルスの月とされたという説がある。いっぽう和名の弥生は、草木がいよいよ生い茂る、「弥生い(いやおい)」月であることから名づけられたそうだ。

 日本は古代ローマと気候が似ているのであろうか。関東地方では作夜来強い風が吹いているが、今日は朝からよく晴れ渡り、確実に冬の気配は遠のいている。この季節は、やはり新しい一年の始まりであることを体感する時期である。昨年暮れから、ずっと付けたままにしていたスタッドレスタイヤもそろそろ外すことにしよう。けっきょく、スタッドレスがまともに役立つほどの雪は降らずに冬が終ってしまいそうである。


 

2月25日(火) 三寒四温

 立春もとっくに過ぎ去ったというのに、関東地方では昨夜雪が降った。もっとも関東の雪は、どちらかというと春先に降ることのほうが多い。
 一年を通してほとんど雪らしい雪を経験しないから、どの車もまともな雪対策などしていない。だから、雪国の人からみたら、まるで子供騙しのような降雪量でも大騒ぎになる。たまたまぼくの車は、暮れからスタッドレスタイヤを装着しているので、少々の雪では問題ない。
 昨日の積雪は大したことはなかったが、一夜明けた今朝は、これもよくあることだが、気持ちのよいすっきりした快晴となった。その結果、めずらしいくらいの霧が発生した。視界は果たしてどのくらいあっただったろうか。走るのに気を使うほどではないにしろ、ふだんとはややちがう幻想的な景色に変っていた。周りの木々も雪をわずかにかぶり、なにかしら静寂な清められたような雰囲気である。
 あの雪の下には、いつもの煤けた木肌があるにちがいないとは知りつつ、つかの間の自然の変貌に見とれていた。もう春はそこまで来ている。



2月18日(火)  科学の悪用

 科学の「成果」を生かすも殺すも、それを扱う人間しだいである。
 卑近な例では、電力供給への原発の利用があげられよう。原子力の利用は一歩まちがえば、大量破壊兵器につながる危険性をつねにはらんではいるが、すくなくも日本ではそんな心配をする必要はいまのところなかろう。しかし世界は広い。テロリストたちは、つねに大きな力を発揮する兵器を求めている。原子力にかぎらず、悪用可能なあらゆる科学の「成果」が、万が一にもテロリストの手に渡らないようにするのは、容易なことではない。

 昨日の日経に小さな記事が載った。「サイエンス」(米)、「ネイチャー」(英)など世界中の主要な科学誌編集者が、『テロなどに悪用の恐れあれば 科学論文、削除も』との共同声明を発表した。
 科学論文は、他の研究者によってその事実が「再現」され、「検証」されてはじめて信憑性が確かめられるものである以上、具体的に記載し、追試が可能になっていなければならない。2月10日に本欄に書いた「The double helix -- 50 years」のDNA二重鎖の発見は、当然のように、他の研究者があらゆる角度から検証できるものであったからこそ、その後の科学の進歩に大きく貢献したし、ノーベル賞も授けられた。

 今回の共同表明は、表現の自由の問題とも絡んで微妙な点があるが、情報公開による「公益」よりも「危険」のほうが大きいと判断できる場合に、削除したり出版を見合わせたりするというのが前提である。
 たとえば、細菌やウイルスの毒性を高くする方法や、遺伝子操作で新生物を作り出すなどは、すぐにバイオテロに利用される危険性がある。細菌を使った兵器などは、基礎知識さえあればすぐにでも作りだすことができるだけにたいへん怖いものである。仮に、長年の研究成果を発表する機会が絶たれることに対して研究者から異議が唱えられた場合、果たして何を優先すべきであろうか。おそらく「公益」を優先せざるを得ないにちがいないことは、容易に想像されることである。
 
 

2月12日(水)  若い世代が見る「プロジェクトX

 以前、“なんやかや”欄に、 NHKの「プロジェクトX─挑戦者たち」チーフプロデューサー・今井彰氏の講演会(横浜国立大学 における)のことを「思いは叶う」と題して書いたが、その講演会の記録をいただいたO氏からさらに情報を受け取った。それは、朝日新聞朝刊「私の視点」(2月8日)欄に寄せられた大学院生・榎本氏のコラムである。

 プロジェクトX(P-X)は理屈を超えた説得力があるが、これに手放しで共感していていいのだろうかという素朴な問いかけである。ひと昔前の企業戦士たちが繰り広げた戦い=仕事は、たしかにその当時はそうであったのだろう。しかし、その主人公たちは、いまやどうしているのか。職場でリストラの脅威に慄きながら、身の置き場を探しているのではないか。P-Xという過去の栄光を美化したサクセスストーリーが、真の姿を見えにくくしているのではないか。P-Xを鵜呑みにするには、あまりに現代という時代とのギャップが大きすぎるという主張である。
 さらに榎本氏は続ける。「彼らは私の父親たちの世代だ。会社では窓際の席を与えられ、家庭ではいじめられているかもしれない。しかし、私の世代を含めた日本の未来を変える力は今も、その手中にある。…」と。

 O氏は、これに対して次のようにコメントしている。
 このドキュメンタリーの「情熱的な実行力を持った人々の血のにじむような努力」が何時の世でも通じるものなのか(我々の時代の者は当然そうなると信じているが)、若い世代が疑問を抱くのもわからないことはない。P-Xが概して泥臭さがなくカッコ良すぎる面も関係しているのかもしれない。
 榎本氏は、「皆でがむしゃらに努力する。失敗してもそこから学び、また果敢に挑戦する。決してくじけない意志と情熱が、視聴者の胸を打つ。」が、「本当にそうだったのであれば」と仮定をつけている。その上で、中高年層に新たな挑戦を要望している。では、若い人は何をすべきか。番組に出てくる人々の意志と情熱には感動しているようだが、このコラムは、それには触れていない。

 

2月10日(月)  The double helix -- 50 years


 今年はテレビ放送開始50周年であるが、科学の世界ではDNAの二重鎖が発見されて50年という節目の年でもある。

 イギリスの科学誌“Nature”がそれを記念して1月23日号に特集を組んだ。DNAの二重らせん構造解明はたいへんな発見で、その後の科学 や医学の進歩にどれだけ寄与したかはかり知れないものがある。

 特集号では当時の発表論文がそのまま再掲載されていて、問題になったX線回折写真もあり懐かしい。
 また「二重らせんそして間違えられたヒロイン」としてロザリンド・フランクリン女史が紹介されている。ワトソン、クリック、ウィルキンスの3人がノーベル賞を貰ったが、その鍵を握るX線写真を撮影したのはロザリンドだった。しかし、彼女はノーベル賞が取り沙汰されるすこし前に亡くなってしまったという悲劇的なヒロインだった。

 そうは言いながらもワトソンとクリックが二重らせん構造を解明したことはまちがいない事実であり、ノーベル賞の定員もあってロザリンドははじき出されてしまったらしい。
 ところで、有名な逸話がワトソンにはある。
 「あなたのDNAは、人類にとってどんな意味があるか」との質問に、「そんなことは私の知ったことじゃありません」と答えたとか。自分の研究は、ただ面白いからやっているのであって、それが人類にどう役立とうが関係ないことだと割り切っている。まじめなクリックとは対照的な性格だったらしく、その後この二人は仲たがいしているという。

 科学とはもともと「知的好奇心」から始まるものであって、それが人類にとって有益かどうかは(らち)外のことである。むしろ、あらかじめある価値観とか目的をもって探求するとしたら、かえって危険なことになりかねないとさえ考えられるのである。科学者の ある種のこの無責任さを追及してやまないのが、村上陽一郎氏である。

 


1月31日(金)  合唱団の名前

 今月、茨城県の西部に新しい男声合唱団が生れた。この合唱団は、たまたま発足当初から「著作権」について相当研究しながら活動を開始した、たぶん全国的にもめずらしいケースではないかと思う。まだ正式な名前が決まっていないくらい初々しい。初々しいけれども活動の主体はやはり(?!)中高年である。中よりのほうが多いといって差し支えないくらいで、30歳代は、はな垂れ小僧といったところ。
 この団は、混声合唱団の男声部から分離したかたちで発足した。すでに30人ほどが集まっていて、過去に合唱を経験していた人もそれなりにいるから、定番と言われるほどの曲はすぐにでも合わせてしまえる。他方で、初心者も歓迎しているので、そう簡単にはハーモニーがまとまらないという、どこの合唱団でも抱える面白さもある。何人かの経験者を核にして、初心者が少しづつ歌えるようになってゆき、ピタっとハモる一瞬に最大の喜びを共有しながら、お互いがかけがえのない時間を持つことの楽しさを実感しているようだ。
 主宰者は、目下、団名をどうするかで悩んでいる。ありきたりの名前では詰まらないし、いい候補もそうそうは出てこない。生れてくる子供の命名のパソコンソフトもある世の中だから、合唱団の名前くらい簡単なものではないだろうかと思うが、いやいやことはそう簡単ではない。関係者は自分の子供の名前をこんなに真剣に考えたかと思わせるほどの熱の入れようである。その点、わが団“コール・グランツ”はなかなかよい名前との評価を受けている。
 まあ、あまり慌てて決めることもなかろう。じっくり検討してからでも遅くない。

 


1月17日(金)  小児救急の現状

 土曜夜の男声合唱が終ったあと、行きつけの居酒屋でやる一杯はいいものだ。いまさら取り立てて言うまでもないだろうが、つごう2時間半近くに及ぶ練習はとにかく疲れるし、喉も渇いてくる。練習の後半はアフターレッスンの楽しみを思い浮かべながら、ひたすら辛さに耐えるばかりである。アフターレッスンがお目当てで来る団員が必ずいるもので、もちろん私もその一メンバーである。

 今夜、NHKのテレビ番組で小児科の医者が足りないという特集を見た。これは全国的な問題であり、小児科の緊急外来を実施している病院が少ないため、患者が遠くまで行かねばならないと訴えていた。取り上げられたのは、茨城県南西部の古河市や猿島郡で実施されているひとつの試みであった。いくつかの小児科医がいる病院がチームを組み 、交代で緊急患者を受け付けるというもの。
 番組では、小児科医不足の裏には、少子化による弊害が潜んでいるとも明言していた。つまり、少ない子供を大事(過保護!)に育てるものだから、大したことのないちょっとした病気でもすぐに病院に頼ってしまう傾向が あるということである。

 いつも一緒にアフターレッスンを楽しんでいる仲間に小児科医がいる。その人は島野了さんという栃木の開業医である。その人から小児科がいかにたいへんな仕事かをいつも聞かされていたから、番組をみながらなるほどと納得できる部分もけっこうあった。番組で紹介されるケースを見るまでもなく、最近の 若い医者が小児科に進みたがらない理由は予想したとおりだった。
 というのは、番組をご覧になった方はご存知だろうが、なんせわけの分からない子供相手だから診察自体がたいへんなのに加えて、大半はほどなく治ってしまうので、薬もさしていらない。その結果、大した診療報酬もないのが実態だからだ。
 ここで仮に、あなたの子供が医学部にいたとしてみよう。その医者の卵がどの診療科へ行くか悩んでいるとしたら、果たしてあなたはどうするであろうか。労少なくして実入りの多い科に行くことを願わないはずがない。小児科の医師はどこでも不足しているから全体的にみてオーバーワーク状況であり、いつ自分が倒れるかも知れないという不安を抱えながら診察を続けている。そんなところで苦労させたくないと思うにちがいない。
 ここには現在の医療行政を含めた構造的根本的な欠陥があるかもしれないし、医療と経済の問題も無視できないだろう。飲み仲間の小児科医 島野さんは口数の少ない人だが、温厚な性格がおもてににじみ出ていて、この人なら子供の患者も安心してかかれる だろうことは想像に難くない。

 たまたま、医療に関連する話題がもうひとつある。先日の日曜日、大学時代の研究室の毎年恒例の新年会があったが、その二次会でのこと。
 東京・目黒(じつは目黒は私の生まれ育ったところである)で開業医をやっている清水さんから、“日経ビジネス1月13日号”にご自分のインタビュー記事が載っているとの話しがでた。タイトルは「診察室 アミノ酸で元気になる!」である。清水さんは、目黒区の医師会でもいろいろな仕事を積極的にこなしている、とにかく意欲的で研究熱心な人である。
 その清水さんが力を入れているアミノ酸サプリメントによる治療──というより予防医学に近いかもしれないような話に、国立栄養研究所の松本さんが極めて厳しい突っ込みを入れた。辛辣だが科学的論理的なディスカッションだからやむを得ない。 理屈で押していく、これでこそ科学者の集まりだと納得した。
 話しはまったく横道にそれるが、ぜひ聞いておいてもらいたいと思う話しを開業医の清水さんが漏らしていた。ご自分の患者さんで高齢の方が自宅で亡くなったときは、救急車なぞ呼ばずに まず医者である自分を呼ぶようにと、患者の家族に言っているそうだ。自分はいつでも24時間体制で応じるから遠慮なく電話して欲しいと頼んでいる。つまり救急車を呼べば、必ず死因の確認が必要になり警察が絡むことになる。高齢でまして病気を長い間患っていて自宅療養していたなら、いまさら死因の確認も何もないからだ。

 同じ“日経ビジネス1月13日号”のなかに驚いたことにもう一人知人が載っていた。分野はまるでちがう「マーケティング」の話題である。
 “売り方革命 ヒットの達人に聞く”と題する特集のなかに株式会社白元の鎌田真(まこと)さんが出ていた。 白元はホッカイロとかミセスロイドなどの日用品を売っている老舗である。わが男声合唱団コール・グランツの指揮者・鎌田弘子先生は、真さんのお母さんなのである。真さんは慶応大学を出たあとアメリカに留学し(確か ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得して帰ってきたと記憶しているが)、今は家業である白元に勤めている。
 記事によれば、真さんは過去のやり方の反省のうえに立ち、ヒット製品を次々に出しているらしい。日用品市場で100万個を越せばヒット商品といわれるようだが、「視点の転換が独創商品を生む」として、新しい発想でいい仕事をしているようだ。
 わたしの周囲では、よい仕事をしている人たちがたくさんいる。置いてきぼりを食わないように頑張らねばなるまい。

 

1月2日(木) 中島みゆき「地上の星」

 昨年は厳しい不況風が吹くなか暗い話題が尽きなかった。また経済面では景気が回復する兆しも依然としてみられなかった。いっぽう、FIFAワールドカップ日韓合同開催、北朝鮮拉致被害者の 帰国、ノーベル賞ダブル受賞など希望を与えてくれる明るい話題もあった。

 こんな時代に応援歌として登場したのが中島みゆきの「地上の星」ではないだろうか。ドキュメンタリー番組「プロジェクトX ─ 挑戦者たち」を見るまで中島みゆきのことはよく知らなかった。いまでもよく知らないことに変りはないが、 NHK紅白歌合戦でその歌う姿を初めて見て、なんともいえない魅力的な歌い方に感心した。
 中島みゆきは、紅白初出場という話題性もあったし、黒四ダム地下での演奏ということも異色だった。「地上の星」の魅力はどこにあるのか。中島みゆきは、“歌”がうまいとはお世辞にもいえない。それにもかかわらず、なぜあれだけ人を惹きつける力があるのか。
 “歌”にはいろいろな要素がある。ひと口に歌唱力といっても、いわゆる良い声を出すことだけではない。それだけでは人は魅せられない。持てる声を使って何をいかに表現力するか。「地上の星」は視点が地上に 住むふつうの人々の高さにある。「プロジェクトX ─ 挑戦者たち」は、名もなき庶民に焦点を合わせたあの歌詞と、何にもまして中島みゆきの説得力ある歌唱なくしてここまで人気を博すことはなかったのでなかろうか。

 さて、今年はどんな年になるのだろうか。ひとつでも明るい兆しを見出せる年としたいものだ。仕事のうえでは中期的な展望を模索しているところだが、明るい材料はそう簡単には見出せそうもない。おそらくいずこも同じであろう。失敗を恐れず、従来の考え方に囚われず、新しいことにどれだけ取り組めるかにかかっているだろう。
 組織というものは、本来が保守的なものであろうが、それを踏まえてどこまで革新的なテーマを掲げられるかである。心あらたに取り組みたい。

 




Back number

2002年
  2004年 2005年 2006年 2007年

 2020年 


表紙<シュンポシオン>Topへ