《 雑 感 平成18年 (2006) 》
2月14日 冬のお肌の お手入れに 3月19日 メジャーという名のマイナースポーツ 4月12日 日本人と桜 5月1日 役者になった合唱おじさん 6月14日 健康法は手術 岩城宏之さんを悼む 8月4日 六月無礼
8月4日 六月無礼
湿気の多いこの季節、すこしでも工夫して快適に過ごしたいものだ。しかし、ネクタイで首を絞め、スーツに身を包んでいなければならない男性諸氏にとって、日本の夏は拷問のようなものである。見ているほうも暑苦しくてかなわない。スーツはやはり湿気のない西洋の服装であり、そのまま日本に導入するのは合理的でない。
日本には昔から「六月無礼」(ろくがつぶれい)という歓迎すべき風習がある。これを現代用語にすれば、差し詰め「クールビズ」と読むことになるだろう。旧暦の六月は夏の最後、酷暑の時候、二十四節気では小暑、大暑にあたっているので、服装を簡略にしていてもその無礼を咎めないという、まことに合理的かつ人道的な考え方である。冷房をガンガン効かせてスーツを着込んでいるのは、どうみても省エネに反する仕業だし、それ以上に不合理なこと甚だしい。
(このはなしは、実は6月に掲載する予定でいたのだが、パソコンのトラブルでアップできずにいるうちに、とうとう8月に入ってしまった。)
冷房温度もすこし上げ、服装も胸元を開いてリラックスしたいものである。それが賢い生き方ではないだろうか。「クールビズ」に縁がない方には申しわけないが、「六月無礼」がますますひろがることを祈りたい。
6月14日 健康法は手術 岩城宏之さんを悼む
指揮者の岩城宏之さんが昨日亡くなられた。
岩城さんは音楽の才能だけでなく文才もあった方である。そのエッセイは気取らない文章でなかなか楽しいものだった。岩城さんは、頸椎後縦靭帯骨化症(けいついこうじゅうじんたいこっかしょう)という大病で首の骨を取ったり、胃がん、咽頭がん、肺がんなどなど大小合せて30回近くもの手術を繰り返してきた。だから「健康法は手術」とうそぶいてもいた。まさに病気のデパートである。
それにしてもあのヴァイタリティはどこから来るのであろうか。手術の度に不死鳥のごとく復帰し、今年4月には車イスでタクトを振ったりもしている。今月1日、入院中の岩城さんは、お見舞いを受けたときに、話すことはできなかったが両腕が小さく円を描いていたそうだ。かたわらの奥様によれば「タクトを振っているんですよ」とのこと。
岩城さんはじつはすごい記録も持っている。ベートーヴェンの交響曲全9曲を一日で、それも一人で演奏してしまったのである。詳しくは(M-51)「ベートーヴェン・マラソン」をご覧願いたいが、2004年12月31日の午後3時30分、第1番からスタートして、最後の第9番が終ったのは、年が明けた午前0時40分、10時間の年越しマラソンコンサートであった。体を気づかう家族や関係者に対して、指揮しながら死ねるなら本望だといったような話を聞いた気がする。とにかく破天荒な人だ。
岩城さんはもともと木琴から音楽に入った人。学習院の中等科のころには、木琴の腕前はそうとうなものだったそうだが、どのような成り行きか、混声コーラス部へ入ることになった。もちろん人前で歌ったことなどない。混声を狙ったのは、ふだん一緒になることがない女子部とのただ一つの接点だったからとか。(→2003年10月26日「一番うまいのがソプラノ?」参照)
入団に当って、とりあえず言われるままに声を出したところ、君は「テノール」といわれたが、思わぬ事態に愕然としたという。何故かといえば、岩城さんは、とにかく歌がうまい順にソプラノ、アルト、テノール、バスと振り分けられるものと信じていたからだ。自分は音楽が得意なのだから絶対ソプラノに入るべきだと。それほど音楽を知らなかったそうである。
偉大なる音楽家のご冥福をお祈りしたい。男声合唱プロジェクトYARO会5団体のひとつメンネルA.E.C.の団長が交代した。前団長の森下竜一さんは、たしかYARO会の最長老であったと思うが、張りのある低音と物怖じしない率直さが頼もしさを感じさせる人物である。ありきたりな言い方をすると、じつに矍鑠(かくしゃく)とした方である。
その森下さんが団長を辞したのは、演出家の蜷川幸雄さんが主宰する高齢者演劇集団『さいたまゴールド・シアター』のオーデションに合格したからである。千数百人の応募者の中から選ばれた55歳から87歳までの精鋭50人が1年後のステージに向けて特訓を開始した。これからは週5日間、さいたま芸術劇場で演劇の練習に明け暮れる。いってみればプロの役者(の卵)になったわけである。どんな役者になるのか大いに楽しみである。1年後に期待したい。
蜷川さんは、「年齢を重ねるということは、様々な経験を、つまり深い喜びや悲しみや平穏な日々を生き抜いてきたということの証でもあります。その年齢を重ねた人々が、その個人史をベースに、身体表現という方法によって新しい自分に出会うことは可能ではないか?ということが、私が高齢者の演劇集団を創ろうと思った動機です。」とシニアパワーに期待を寄せている。ただし、当然手加減はしないそうだ。
森下さんの合唱のほうはどうなるのか気になるところであったが、役者になってもメンネルA.E.C.は続けるという。またあの馬力のある低音が聴けるのはうれしいことである。
4月12日 日本人と桜
東京の桜はもうほとんど終わりである。上野公園も葉桜ばかりとなり、いよいよ新緑が清々しくなってきた。
日本の春に桜は欠かせないといわれるが、日本人はどうしてこれほどまでに桜が好きなのだろう。おそらく満開の桜の木の下で迎える入学式や新学期があるかぎり、年度替りを外国のように4月から9月に変えることはほとんど許されないにちがいない。
ところで、桜をとても印象的に扱った能に『熊野』(ゆや)という曲がある。熊野は、平清盛の子息宗盛の寵愛をうけた遊女の名である。能好きの人たちのあいだでは「熊野、松風、米のめし」という言葉があるそうだが、それは『熊野』と『松風』の二曲が際立った名曲で、白いご飯のように噛めばかむほど味わいが出るということからきているという。
ある日、熊野のもとに、遠く離れた故郷の母親が重い病を患ったとの報せが届けられた。熊野は宗盛に帰郷の許しを求めるが拒まれたうえに、あろうことか花見への同道を命じられたのである。憂いに沈む熊野を乗せた牛車が春の都を静かに進んでゆく。やがて清水寺に到着、花を愛でる宴がはじまり、請われて熊野は舞を披露する。悲しみを堪え座興のために尽くさねばならぬ身の上、熊野の心情はいかばかりであったろうか。
(このあたりの不条理、虐げられる庶民の怒りや悲しみなどは、たびたび能で取上げられるテーマである。)
宴たけなわのそのとき、花に嵐と不意の雨に見舞われ満開の桜は無残にも散ってしまった。熊野は、散りゆく花と老いたる母の姿を重ねあわせ、安否を気遣う歌を詠んで宗盛に差し出した。さしもの宗盛もこれには心を動かされ、ついに帰郷を許したのであった。
これが、歌舞伎だったなら、熊野のまわりを桜の花びらが舞い散るところであるが、能では舞台のどこを見ても桜などない。では、どこにあるのか。それは、観客(見所)の心のなかである。すなわち一人ひとりが、自分の桜を思い描く、つまり見えないものを見なければならない。言い換えれば、散る桜の風情を知らなければ、楽しむことができない。これが幽玄というものであろうか。想像の芸術といわれる能らしい曲である。
関連資料: 「花に嵐のたとえもあるぞ」 雑感欄(2003年4月5日)←日付順になっているので下の方にあります。悪しからず。
3月19日 メジャーという名のマイナースポーツ
アメリカで行われているワールド・ベースボール・クラシック、遂に日本が韓国を6−0で破って決勝戦へ進出した。一時は自力で勝ち残ることができないところまで追い込まれながら着実に這い上がった。目を見張る結束力と底力である。
ところがこの大会では、米国対日本戦で判定が覆されるというとんでもない事件が起きている。判定を覆したのは「米国人」審判、それもメジャーリーグではなくマイナーリーグの所属だという。ニュースを見ていて、めずらしくワイフが「なにあれ? ひどい」と憤慨していた。
ところで審判の件はとりあえず置いておくとして、数えるほどの国しか参加しないのに“ワールド”ベースボールとはこれいかに。当然“ワールド”と銘打つからには世界選手権のはずだろうに、必ずしもベストメンバーが出ないのだから、どう見ても世界最高の大会とはいえない。それにもかかわらず、関係者は盛んに“世界一”を強調している。見方を変えれば、2012年ロンドンオリンピックでも野球は除外されていることが、野球のスポーツ界における位置づけを明確に表している。オリンピック開催国にとっては、開催期間中のわずかな試合だけのために野球場を作ったとして、終わったあとに使う見込みがないのだから、そう簡単には採用できないのもうなづける。
サッカーや野球のようにプロリーグがあるスポーツをわざわざオリンピックでやる必要性があるかどうかの議論は、ここではとりあえず触れないでおくが、それ以前に野球が国際的なスポーツになりにくいのは 、ルールの極端な複雑さも絡んでいると思う。とにかく一挙手一投足について事細かなルールを作りすぎている。 ルールブックのぶ厚さたるやこれがスポーツかといいたくなるくらいのものだ。つまり自由度がなさすぎる。この辺りが、なんでもかんでもルール・ルールとルー ル好きのアメリカ人らしいところだ。
多くの国際的なスポーツでは、公平さを保つために対戦国以外の第三国が審判をやるのが常識である。片方の対戦相手国が審判をやる国際試合など誰が真剣に見られるだろうか。 そこからしてすでにフェアではない。それを平然とやるところが、“ワールド”ベースボールなのである。国際経験が少ないというより、野球はもともとが国際間で戦うものではなくあくまでローカルにルールを決めてやるものなのである。プレイする上でもっとも重要なボールの大きさや球場の規格が一定していないようでは、とうてい国際化などできるわけがない。もっと“国際的ハーモナイゼーション”を意識しないとだめなのである。“ワールド”はそんなに狭くはないはずだ。「なんやかや」欄にエッセイ『乾燥肌と水もしたたる男の物語』を寄せてくれた島崎弘幸氏は、大学時代の研究室の同窓である。以前は都内の大学の医学部で教鞭を取っていたが現在は、新設の某大学で教授職を務める脂質の専門家である。テレビにもたまに顔を出すようだが、そんな脂質の専門家が乾燥肌で悩むとはいささか皮肉なはなしである。
誰しも経験があるとは思うが、皮膚のトラブルは案外イライラするもので、ことのほか精神衛生上よろしくない。乾燥肌でお悩みの方は、教授のお勧めであるから「コップ二杯の水」を試してみるのもよいかも知れない。
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